ミャンマー

ミャンマープロジェクト訪問報告

医師 劔(櫻井)陽子
AMDA Journal 2001年 9月号より掲載

 1997年に半年ほどAMDAミャンマーのメッティーラプロジェクトに AMDA医師として参加させて頂いて以来、今回3年半ぶりにミャンマーを 訪れることができました。私がいたころは日本人医師による巡回診療が中心の、まだまだ小さいプロジェクトでしたが、今では巡回診療もミャンマー人医師によるものとなり、数ヶ所の村での栄養給食プロジェクト、ミャンマー子ども病院、マイクロクレジットプロジェクトなど多くの興味深いプロジェクトが、主にミャンマー人スタッフ自身の手で展開されており、(ほんの少しですが)AMDAミャンマーに関わった人間としてとても嬉しくなりました。これもAMDAミャンマーに関わってこられた様々な方々の計り知れない努力の結果ではないかと思います。久しぶりにメッティーラを訪れて、新たにたくさんの思い出ができました。少しですが、ミャンマー訪問のご報告をさせていただきたいと思います。

AMDA医師の診察を受けるためRHC(地域保健センター) に集まった患者さんたち

1.ミャンマーの遠隔地で働く医療従事者たちの活躍と
AMDAの巡回診療プロジェクト

 メッティーラ周辺地域への巡回診療は、もともとその地域に存在するRHC:Rural Health Center「地域保健センター」を拠点として活動しています。RHCには確かに医者はいませんが、そこにはLHV:Lady Health Visitor (日本の保健婦のような働き)、MW:Midwife(助産婦であるが、日本と違い看護婦より下)などの医療従事者たちが働いています。97年当 時私はこの「医者のいない村」へ「医者」として訪れて活動をしていましたが、日本では見たことのない症状や、検査というものがほとんどできない状況での診察に、日々自分の無力さを痛感するばかりでした。

   そんなある日、縫合された傷の抜糸に来た患者さんがいました。日本の感覚では傷を縫うのは普通、医者以外いません。私はその傷を縫った覚えはありませんし、ここには医者はいないはずです。「誰に縫ってもらったの?」と聞くと、「LHVの先生に縫ってもらった」と言います。と言うことは、ここには医者はいないけれども、LHVやMWたちが私にできる程度のことは普段やっているのではないかと、わたしはやっと気づいたのでした。LHVやMWたちは簡単な診断を行ない、薬の処方もしたりしています。傷の縫合もします。お産にも立ち会います。その他、予防接種活動、らい病患者や結核患者を見つける活動、地域や学校での衛生教育活動も行なっています。

待合室の患者さんに声を掛けるMW。MWは主にお産に携わるが、LHV同様簡単な診療活動や衛生教育活動にも関わる。

 LHVはRHCの責任者であり、自分の担当地域でどのような病気が起こっているかなどを把握し、疾病統計の管理も行なっているのです。彼女たちは自分たちの仕事にとても誇りを持ち、多忙で安月給でも頑張っています。

 こんなふうに書いていると、「それではAMDAが活動する必要はないの ではないか?」などと思えてきてしまうかもしれません。しかし皆様もご承知のようにミャンマーでは今だ周産期死亡率や妊産婦死亡率、乳幼児死亡率が高率である等、健康上の様々な問題を抱えているのが実状です。この一因として、優秀なLHVやMWたちを擁していても彼女たちの活動には様々な困難が付きまとっていることが挙げられると思います。

 例えば、LHVやMWたちが担当する地域は広大です。担当人数は千人単位になります。RHCに駐在して患者さんを待つばかりでなく、RHCまでやって来ることができない人々の健康管理のために道無き道を自転車で移動しています。遠くの村には1日がかりで行っています。雨期になると道は本当に無くなって、牛車に頼るしかありません。緊急時でも自転車か牛車しかなく、当然患者さんのところまで辿り着くのに日本では想像できないほどの時間がかかります。


 もう一つの問題は薬品、道具不足です。診断や処方についてトレーニング を受けていても患者に与える薬がなければどうしようもありません。その場合は街の薬局へ行って買って来るように指示するしかないのですが、村人にとって薬は高価であることが多く、治療を諦めざるを得ない場合もあります。

 AMDAの活動はこういった医療従事者たちの活動と密接に関わっています。いくら医者のいない地で働くためのトレーニングを受けているとはいえ、週に1回でも医者が来てくれることで、彼女たちには非常に心強いことと思います。そしてなんと言っても豊富な薬品類!「AMDAが薬を持ってきてくれるので、本当に助かります」と言う声を何度も聞きました。また緊急搬送時のための「緊急基金」も車のレンタル代などとして、随分活用されているようでした。


2.栄養給食センターと衛生教育

 AMDAでは栄養給食プロジェクトも行なっています。わたしが滞在していた97 年当時は1ヶ所の村だけでの活動でしたが、今では3つの村で行なわれています。これもRHCをベースとして行なわれている活動です。村のボランティアたちによって調理され、集まった子どたちに食事を食べさせています。

調理するボランティア達とおいしそうに食べる子ども達

 栄養給食のある日は子ども達とともにお母さん達も集まって来るので、保健衛生教育を行なう絶好の機会です。わたしが訪問した時もMWによって毎回テーマを設定して教育が行なわれていました。

 前述したようにミャンマーでは医療行為を受けたり、薬を買ったりするこ とが非常に困難な場合があります。そういった状況下では病気にならないた めの予防活動、つまり衛生教育がとても大切だと思われます。LHV、MW たちによって衛生教育は行なわれているもののまだまだ充分とは言えず、やけどをしても冷やすということを知らない人たち、怪我をしたとき傷口に焼いた新聞紙(!)を擦り込んでいる人たちをたくさん見てきました。幸いミャンマーは他の発展途上国に比べ識字率が高いので、本を利用した勉強会なども行なわれているようでした。

栄養給食センターで栄養について話をするMW

3.ミャンマーのお産

 個人的に産婦人科に関わっていることもあり、以前からミャンマーのお産にはとても興味があったのですが、今回もMWによるお産に立ち会うことができました。

 お母さんは24歳で2回目の出産ということでしたが、一人目は死産だったそうです。わたしが到着した時はすでに必死にいきんでいるところでした。もちろん陣痛や胎児心拍のモニターなどありません。途中で「このお産は時間が掛かり過ぎる」と言って、MWの判断で陣痛促進剤を2回、筋肉注射した末に赤ちゃんが誕生しました。ところがこの赤ちゃんが全く元気がないのです。手足はだらんとしていますし、目は開けてきょろきょろしているものの、全然泣きません。呼吸も苦しそうです。「これはまずい。なんとかしなくては!」とは言うものの、酸素もなく、吸引のチューブもありません。そうこうしているうちにMWが人口呼吸を始めました。逆さにして叩いたり、背中をさすったりしているうちに、少しは元気が出てきたのですが、まだほとんど泣きません。ついにMWが赤ちゃんを布でくるみ始めたので、「病院に連れて行くことにしたのかな?」と思っていると、「ほら、元気になったでしょ!」と言って赤ちゃんをゆりかごへ連れて行くではありませんか。「日本ではこれではだめなの?ミャンマーではこれで充分ですよ。」ということでした。翌日、心配でもう一度見に行きましたが、赤ちゃんは元気に泣いて、母乳を飲んでいました。MWの言ったとおりです。こういったお産の陰に高い周産期死亡率があるのか、それとも日本がやり過ぎなのか。考えさせられるお産でした。

 ちなみにわたしが97年にとりあげた赤ちゃんは元気に大きくなっていました。お母さんは出産当時45歳で、11回目の出産で、お産後もおっぱいが出ないとちょくちょく診療を受けに来ていたものでしたが、そのお母さんもちょっと太って元気にしておられました。「まだ子どもを産むつもりはありますか?」と聞いたところ、「もういらないわ。ちゃんと避妊のための注射もしているし。」と言う答えが返ってきました。避妊教育も97年当時に比べ随分普及しているような印象を受けました。飲み薬や注射での避妊が一般的なようです。コンドームは他の薬に比べ値段が高めのこともあり、村レベルではまだそれ程使われていないようでしたが、ミャンマーでもAIDSは深刻な問題となってきているのでコンドームについての教育も随分行なわれているようでした。

 メッティーラはほとんど変わっておらず、3年半ぶりであることが信じられないくらいでしたが、3年半ぶりに会う子どもたちの成長は著しく、この子どもたちの成長ぶりを見に、またミャンマーを訪れたいと思いました。今回の訪問に際し、現地調整員の小林さんを始めAMDAミャンマースタッフには大変お世話になりました。ありがとうございました。

 AMDAミャンマーのますますの発展をお祈り致します。



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