ミャンマー

ミャンマー子ども病院報告
看護婦 川口まり子
AMDA Journal 2001年 7月号より掲載

活動期間:平成12年11月17日〜平成13年4月5日

メッティーラの朝

 AMDAメッティーラ事務所の2階のとある部屋。東の窓からは毎朝真っ赤な朝日が差し込んできます。簡単に身仕度をすませ階下におりると、メイドのマニラさんがいつも素敵な笑顔で迎えてくれます。 温かいスープとパンで腹ごしらえをした後は、こちらもまたマニラさんが朝早くから準備してくれた3段重ねの弁当箱(ミャンマーでは皆これを持っている)を片手に病院へと出発します。


掲示された病気予防についてのパンフレットを熱心に読む人々

 メッティーラの朝は活気づいています。一台の乗合バスには振り落とされそうなほどの人がぎゅうぎゅう詰めになって乗っており、自転車で通勤する人々はハンドルに皆同じ弁当箱をぶら下げ、緩やかな坂道を列になってこぎ進みます。 一方では托鉢する修行僧の列、頭に大きな籠を載せ行商へ向かう人々…。そんな風景を毎日見ながら4ヵ月半の間メッティーラ市民病院小児病棟(通称:ミャンマー子ども病院)へ通いました。

 病院に到着すると玄関先には必ず数組の親子が外に出ていて、朝日に当たりながらタマリンドの木の下でゆっくりとした時間を過ごしています。頬と頬をぴったりとくっつけて抱っこされている子供の姿も印象的です。 中には初めて見る日本人に驚きを隠せない様子で目を凝らしてじっと見つめる子供たちもいます。

ミャンマー子ども病院の子どもたち

 そんな病院も一歩なかに踏み入ると厳しい治療現場もあり、日本の病院からは想像し難い状況も幾度となく起こります。逆にとてもうれしくなるような出来事や考えさせられるような場面にもたくさん出会います。 印象に残ったエピソードを紹介します。

 12歳の女の子。リウマチ性心膜炎を患っており、子ども病院への入院も度々繰り返していました。今回は症状がひどく昼も夜も熱と呼吸苦に悩まされ、日本からの支援で投入された酸素吸入器から出てくる酸素を吸ったところで一向に苦しさは良くなりません。 極度の貧血で輸血が必要になり、目の前にぶら下がる血液パックを何度見つめたでしょう。結局私は彼女に十分な看護はしてあげられませんでした。度々様子を見に行き声をかけること、気を紛らすために遊びを取り入れることぐらいです。 彼女はどんなに苦しくても私たち看護婦や医師が近くに来ると、必ず口元をキリッと上げて精一杯の笑みを返してくれます。自力では起き上がれないため、いつも父親にもたれるように座っていたのが印象的です。そしていつもたくさんの家族にかこまれていました。 ある朝いつものように様子を見に部屋を訪れると、姿が見えません。容体が急変し家族の希望で息が途絶えないうちに村に連れて帰ることになったそうです。ミャンマーでは死んでから村に連れて帰ることをタブー視する地域もあるようです。 村に帰った彼女のその後が気になりましたが、少なくとも家でもたくさんの家族に温かく見守られて過ごしたことでしょう。


保育器の清掃をするソー看護婦と川口看護婦(筆者:右)

 8歳の男の子。はしかが重症化して肺炎を併発していました。救急で家族が連れて来た時はすでに意識ももうろうとしており口の中も異臭を放っていました。身体はまるで湯たんぽのように熱く皮膚は発疹でひどい状態です。 限られた環境の中でできる限りの処置をし、様子を見ていました。3日目の朝、訪室するとずっと付き添っていた父親が複雑な表情をしていました。昨夜少し意識が戻り始めたが、その後の停電で酸素吸入が出来なくなり、また何の反応もなくなってしまったとのことです。 昨年11月からは子ども病院用に取り付けられた大型ジェネレイター(発電機)が停電時には稼動し始めていましたが、1ヵ月の予算で購入した石油は、予想外の度重なる停電で既に底がみえてきたので、現地スタッフによって止められてしまったようです。 AMDAでも緊急で石油の予算の増額をすることにしましたが、それまでの間父親は酸素ボンベの酸素を充填するために600チャット(約240円:一般家庭にとっては高額)を払いました。その甲斐あってか、2日後には目を開けるようになり少しずつ反応が見られるようになりました。 しかしかなりの時間低酸素状態が続いたことや高熱よる影響を考えると何らかの障害が残るのではという心配がありました。 やっと支えがあるとなんとか座れるようになった時に退院の話しが出てきたため帰ってからのことが気になりましたが、日本のようにリハビリなどはないため、最後の日に手足の関節運動について説明しながら一緒に行い、無理のない範囲で少しずつ立つ訓練も進めていくよう話しました。 1週間後外来で父親に声をかけられた時、髪もきれいに切りそろえ背筋を伸ばして抱きかかえられている姿は見間違えるほどでした。その時はまだ頼りない歩行も次の週の外来日にはしっかり歩けるようになっていました。

 約4ヶ月半の間、他にもいろんな患児やその家族と出会いました。マラリアであっけなく亡くなってしまう乳児や、下痢や呼吸器感染症でも重症化した状態で運ばれてきて助からなかったケース…。もちろん元気になって帰っていく子供たちもたくさん見ました。 諦めかけた頃に信じられないほどの回復力を発揮する子供もいます。退院した子供たちが再診日にとてもお洒落してやってくる姿を見るととてもうれしくなります。 一方で外来通院してくる子供たちの中にはダウン症等の先天性疾患、脳性まひ、精神発達遅延のようなケースまで、療育面で力が必要と思われる子供もよくみかけます。しかし今のところは定期的な診察のみで、訓練等能力を引き出せるような関わりまでは出来ていない現状もあります。

病院ってどんなところ?

 入院してくる子供やその家族がとても不安そうな顔でキョロキョロしている姿をよく見かけました。わたしが近づいていっても石のように固まってじっとこちらを見ています。どうしたの?と一声かけた瞬間ほっとした表情になり、入院生活、治療への不安がぼろぼろと出てきます。 子ども病院スタッフは慢性的な人員不足のため、看護業務においても投薬や処置のみに終わってしまうところが多いです。なかなか患者の心理面への配慮まで行き届かないのが現実です。またミャンマーでは看護職はとても高貴な職として受け入れられており彼女達自身も自尊心を持って働いています。 しかしかえってそのことが村人や決して裕福とはいえない人々との間に隔たりを生じさせてしまうこともあるようです。


“きれいにそうじをしましょう”“食べる前には手を洗いましょう”など病院内に掲示してある手書きポスター

 こちらの人にとって'病院'特にこのような最新の医療機器がそろった入院施設はまだまだ身近なものではありません。この病院で初めて西洋医療に出会い、点滴でさえ体に害を及ぼすものと信じて止まない人々にとっては、日本から投入された酸素吸入器、保育器、光線療法、輸液ポンプなど数々の医療機器は、さらに不安を助長させるものにもなり得ます。 このように医療機器導入等の援助をする際は看護スタッフへの技術指導だけではなく患者が安心して治療を受けられるような配慮も必要です。無駄なことに思えるかもしれませんがそのことの積み重ねが病院に対する抵抗や恐怖心を取り除くことにつながるのでは?と思い、院内をうろうろしては不安げな顔を探して話を聞いてまわりました。

 一方で私の滞在中にも何度か入院を繰り返すケースもいました。中には再発の原因が退院後の生活管理に起因しているケースもありましたが、「また来たよ」と笑いながら話す姿は、少なくとも彼らにとってこの病院が身近な存在になってきつつあることを感じさせてくれます。

 開院から約1年半が過ぎ、メッティーラでもこの病院の存在はかなり知れ渡ってきています。しかし村への巡回で感じたことは、舟で湖を渡り更にでこぼこ道を進んで行くような遠く離れた村はもちろん、病院とは目と鼻の先、街中にありながらも貧困に苦しむ地域でもこの病院のことを知らない人が大勢いるということです。 経済的に苦しい人でも、病院までのアクセスが困難な人でも、多くの人々に扉が開かれた病院にしていくためにはまだまだ課題は山積みです。しかし早期治療で救われる命はたくさんあると思われるため、病院の機能が十分生かされるよう対策を練っていく必要性を感じました。

2人の看護婦さん

 現在この子ども病院では、昨年岡山で3ヶ月の研修を受けた2人の看護婦、タンタンエイさんとソーシュエイさんが働いています。タンタンエイさんは昨年の12月から、ソーシュエイさんは今年3月からこの病院での勤務許可がおりました。 AMDAとは最低1年半の間この子ども病院にて勤務することが契約されているため、通常の3ヶ月毎の異動ではなかなか取り掛かりにくい体制作りに貢献してもらえればうれしいな…と勝手に期待してしまいます。

 タンタンエイさんは、岡山での研修は夢のようだったと話しています。今でも時間が空くと詰め所の机の引出しから日本語のテキストを出し単語の練習を始めます。小児分野での常時勤務は初めて(通常は病院全体で協力)とのことで初めはやや緊張しているようでしたが、彼女なりに慣れようと頑張っています。 彼女にとって日本での研修で一番大きな収穫は子供に何の抵抗もなく接することが出来るようになったことだそうです。たまに遅刻したり、忘れっぽいところもありますがとても味のある看護婦です。

 ソーシュエイさんは、首都ヤンゴンの私立小児病院で長年働いてきた言わば小児看護のプロです。小児に関してはかえって教わることのほうが多いくらいです。1人息子を旦那さんのいるヤンゴンに預け、ここメッティーラに単身赴任してきました。 私たち日本人の意見にもよく耳を傾けてくれてとても頼りがいのある看護婦です。看護体制も比較的整っているヤンゴンの病院と比べるとミャンマー子ども病院はまだまだ課題が山積みで責任も感じているようです。


病院で診察するキン医師(左)とソー看護婦

 私は派遣前にも岡山で彼女達に会っていましたが、2人とも日本で会った時とはまた違った表情で働いています。2人とも再会を喜んでくれ、快く自宅に遊びに来るよう招いてくれました。何度かお邪魔しましたが、彼女達の住む寮は決して快適と言えるようなところではありません。 また子ども病院で働く他のスタッフもここだけの給料では十分でないため、他にも私立の病院やクリニックでの勤務をかけもちしていることが多いです。昼も夜も働き、疲れきった表情で出勤してきたり、体調を壊す看護婦もいました。 身体的にも精神的にも過酷な状況にさらされている状況を知ると、こちらからいろいろと変化を求めることはなかなか難しいことのように思えてきます。

○国際協力の場に立ち、一看護婦として思うこと

 今回この派遣に参加した当初、ミャンマーの医療・看護の現状を目の当たりにし、今まで看護に対して抱いてきた信念や生命観のようなものが崩れていくのを感じました。 国が違えば文化も価値観も違うし、その国なりのやり方もある…頭の中ではわかっているつもりでも看護をすすめていく上であまりにも多くの違いが出てくると、どうアプローチしていけばよいのか戸惑いました。 日本で今まで当たり前のようにやってきた方法ではなかなか通じない、さらに知識や経験の未熟さに追い討ちをかけられしばらくの間足踏み状態が続きました。今まで看護を行なう上で基準にしてきたことはなんだったんだろう??いろんなことを考え悩みました。 しかし一方でそのことは狭い枠組みから抜け出せるきっかけにもなりました。きっと途上国での活動を始める時、誰もがぶつかる壁だったのかもしれません。

 活動自体に関しても、看護という形として見えにくいものはなかなか達成感が得られず、先も見えにくいため、やっていることの意味を問いながらの毎日でした。 しかし日本に帰ってきて少し距離をおいて考えてみて、振り返っていくうちに、少しずつミャンマーで体験した出来事のひとつひとつが、私の中で意味付けでき整理されてきたように思えます。

 国際分野で働く看護婦のための方法論などはまだまだ確立されたものはないようです。きっと10人いれば10人それぞれの方法で看護が展開されていくのだと思います。様々な人の国際協力における看護経験がこの分野の発展につながっていくことを望みます。

 医療環境に恵まれないがために健康問題をかかえる人が多く存在するミャンマー、医療環境に恵まれながらも未だに様々な健康問題をかかえる日本。本当の健康ってなんだろう…?一方向からではなく、様々なことを多面的に捉えていく必要性を学びました。 またこの疑問はこれから先私が看護職として働いていく上でも大きなテーマとなりそうです。

 最後になりましたが、今回の派遣にあたりご協力いただいたAMDAスタッフの皆様、多くの支援者の皆様に心より感謝いたします。このミャンマーで久しぶりに心の底から笑ったり泣いたり怒ったり喜んだりすることができたような気がします。 本当に貴重な体験をさせていただきました。ありがとうございました。




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