ミャンマー

ミャンマー子ども病院での3ヶ月間
看護婦 野村 由香
AMDA Journal 2001年 3月号より掲載

<子ども病棟の背景>
 メッティーラ子ども病棟(通称:ミャンマー子ども病院)は1999年11月、日本政府、産経新聞“明美ちゃん基金”、ミャンマー子ども病院支援委員会、 ミャンマー国内委員会からの協力およびAMDA搬出金により、当地区の母子保健医療向上を目的に、メッティーラ市民病院内に建設された。完成後はミャンマー政府に移管され、 実質はミャンマー政府の管理下にある。したがって人事、運営に関してはすべて保健省の指揮のもとで動いている。ミャンマーの国事情から、建設にあたりそれが条件でもあった。

ミャンマー政府は外国からの援助に期待を寄せてはいるが実際にソフト面の導入となると極めて慎重であり、国外からの情報流入や国外への情報漏洩に対して、 それがたとえ医療に関することであっても懸念している。そのため、この子ども病棟完成後も実際の日本人スタッフによる医療介入が難しい状態にあった。 しかし、政府の人事では絶対的にスタッフ不足であり、運営にあたっても十分な資金がないため、そのことが原因となって様々な問題が生じていた。その問題を解消するため、 AMDAミャンマー駐在員によるミャンマー保健省への幾度と重ねた交渉の結果、その道が開け子ども病棟での日本人医療技術スタッフによる実際の医療活動が可能となった。

<活動期間>
2000年8月28日〜2000年11月22日

<子ども病棟の現状および問題点>
 ICU、NICUを備え、計34床を有するが、入院患者は平均14〜15人に留まっており、病棟の機能が十分に生かされていない状況が依然続いている。その最大の要因として、 医療スタッフ不足が挙げられ、それに起因する問題が多く存在した。

 開院当初から人事に関しては保健省へ増員を要請しているが、未だ目処が立っていない。現在病棟を支えているのは、 小児科キンタンシー医師と3人の看護婦(各勤務一人の場合がほとんど3人でローテーションしている)および1〜2人のナースエイドである。 週に2日の外来日や時間を問わず駆け込まれる緊急入院時、重症患児が何人もいる状況はまさに戦場である。

そのような状況で最優先されるものはもちろん救命であり、もっとも危機状態の患児にスタッフ一同がかかりきりになる。そのため入院患児全員に目と手が行きわたらないばかりか、 急変の発見がおくれ命をおとしてしまうという、あってはならない事実もおこっていた。また、忙しさから起こり得る医療ミスも潜在的な問題として挙げられる。

病棟内の環境衛生,危機管理にも手がまわっていない状況であった。使用済みの針がベッドや床頭台の上に転がっていたり、吸引器や吸入器が消毒されぬまま使いまわされていたり、 ベッド上の汚染が著しい。(ミャンマーではオムツの習慣が無く、薄い布を下に敷くのみで汚染しても何度も同じ布を使って拭いてしまう)感染症が多く、 また潜在している不明確な感染症が多い環境なだけに院内で感染する可能性は極めて高く医療スタッフはそれを出来るだけ回避せねばならない。

しかし全体的に衛生管理,感染リスクへの意識が低い印象を受けた。患者側の問題としては、対象者が僻地の貧困層であり病気に対する知識や脅威感が低い。 そのため重症となって運ばれてくるケースや、治療費を払えないとの経済的理由で入院できなかったり、入院しても治療代が払えず治療を断念し子どもを連れて帰ってしまうケースも少なくなかった。 治療費に関して診察代は無料であるが、薬代,検査代,診療材料の注射器一本さえも患者負担である。市民病院では政府からの医療サービスとして薬代の一部負担を行っているが、 低所得者にとって薬代の100チャット〜200チャット(30円〜60円)は高価であり、病院にかかること自体が難しいのである。

患者負担を少しでも減らすため、 3ヶ月に一度AMDAより消耗診療材料の現物支給を行っている。更に少しでもより効果的な治療が受けられるよう、10月より子ども病棟へ毎月5,000チャット(1,700円)の資金援助を開始し、 貧困層への医療の充実を図った。資金はAMDAクリニックの薬代から得られるエマージェンシーファンド(緊急基金)からとした。

ミャンマー子ども病院にて
ミャンマー子ども病院にて/中央が筆者(2000.10)

 入院患児の主な疾患は呼吸器疾患,肝炎,腎疾患,マラリア,デング熱,結核,下痢、であり治療は薬物治療中心である。毎朝医師と看護婦で回診が行われ、 そこで治療方針の決定,変更がなされ指示が出される。患児の情報もこのときに付き添いの家族から得て、家族への説明,指導もこのとき行われる。

医師は出来るだけ低コストで効果的な治療を行うことに努めているが、高価な薬剤を必要とする重症ケースでは、その都度家族に患児の状態や必要な治療費を伝え、 家族の意思を確認しつつ治療にあたっている。十分なインフォームドコンセントが行われていた。
 AMDAより支給された医療機器については、インキュベーターをはじめ超音波ネブライザーや酸素吸入器などフルに稼動しており、その治療効果を発揮していた。

しかし数が限られているため、必要としている患児全てに行き渡ってはいない。酸素療法が必要な患児が複数いる場合、命が秤にかけられてしまうのである。

 その他の問題として、電力供給については11月より大型のジェネレーターの導入により、停電による医療機器の中断が解消される。燃料費についても市民病院側で賄うことが難しいため、当面AMDA側より援助を行っていく予定である。

<活動の実際>

*業務介助
病棟の業務の流れや各スタッフのスケジュール、役割分担を把握した後、おもに医療処置時の間接介助、患児の清潔ケア、病棟内の環境整備にあたった。 午前中に行われる回診時に全患児の疾患および状態を把握し、重症患児がいる場合は担当をとり、患児のバイタルサインチェック、全身状態の観察を行った。 外来日に看護婦は外来患児の対応に追われるため、病棟内のラウンドを担当した。

*医療技術および衛生管理指導
 医療行為に関しては点滴施行時の清潔操作,点滴施行中の患児の観察点,吸引方法,吸入方法,氷や冷水を使用しての解熱方法等の指導を行った。 衛生管理に関しては主にナースエイドを対象に医療器具や医療物品の消毒の必要性,煮沸消毒器(未使用のまま放置されていた)や消毒薬を使用しての消毒方法(ヒビテンなど現地で安価で入手可能),患者家族に対しては汚物処理後の手洗いの励行、患児の身体保清の必要性を説明し、体を拭いてきれいにすることや、オムツとして布を何枚か貸出し、出来るだけ汚れたらすぐに取りかえるよう勧めた。そのほか針捨て箱を設置し、針の後始末の徹底を呼びかけた。

*村落への巡回
(集落に潜在する患児の発掘)
 メッティーラ市民病院の村落医療スタッフの協力を得て、地域医療スタッフと共に村を巡回した。村長や村の住民より、子どもを中心とした村民の健康状態を聴取し、問題がある患者に対して緊急性のある例については病院まで搬送し、緊急を要さない場合はその場で処置を行ったり薬を渡すなどし、衛生教育等行った。

上記に挙げた活動内容について、おそらくもっともらしく聞こえているかと思う。

しかし実際はそんなうまく行くはずが無く、少し前に進んでは後ろに下がるといった日々だった。この3ヶ月間、どちらかといえば私の方がボランティアを受けさせてもらっていたのだと思う。 そんな奮闘の中での、私の学びを紹介したい。

<3ヶ月間の自分>
*自分の位置
 私は、初めに私がなぜこの病院にやってきたかということをスタッフに説明をし、なんでもいいから言って欲しいと述べた。しかしなかなか依頼がこない。 私も初めは何をどうして良いのやらという感じで、焦る気持ちを押さえつつしばらく傍観者であった。 子ども病棟に外部から実際の業務に参加するスタッフが派遣されるのは私が初めてとのこと。 日本人と接触するのが初めてというスタッフ,患者,および家族が多い環境の中、やはり通訳を担当してくれるスタッフはいるものの、なかなか思うように進まず、 自分の位置は"よそもの"という雰囲気であった。ミャンマー人の遠慮深い国民性もその要因になっており、それは最後まで解消されることは無かったが、 本当にこの遠慮深さと気遣いは日本人以上のものを感じ脱帽だった。気が付けばそんな周りの人々に甘えている自分がいた。

なんでこうしないの? このままでいいの?とただあら捜しをし、勝手に動いている自分がいた。心のどこかに援助する側の高慢な気持ちがあったのかもしれない。これではいつまでたっても理解は得られない。私を解ってもらえるよう動かなければ。

次第に病棟内の状況も掴めてき、自分にできること、やるべきことが見えてきた。片言ではあったがミャンマー語での会話にも挑戦した。 スタッフと一緒になって働くことでコミュニケーションが図れ、私の位置付けも彼らの中で出来てきたのか、同僚からも患者家族からも声がかかるようになり、 子ども病棟の一スタッフである実感が沸いていた。気が付けば医療スタッフや子ども,家族と笑いながら楽しく仕事をしていた。 そして元気に退院して行く児を笑顔で見送り、看護婦の醍醐味を味わいスタッフと共に喜びを分かち合っている自分がいた。

 国際協力においてその難しさは、命をあずかる医療についてはなおさらの事であると思う信頼関係もより深いものでなければならない。 その根本となるものはお互いを理解することであり、自分を理解してもらうことに努める姿勢である。 そしてお互いに人の命を救うという共通のビジョンをもった信頼できるパートナーとなることが大切であるという事を、身をもって感じることができ大きな学びとなった。

ミャンマー子ども病院にて。左から筆者·キン医師·和田管理栄養士

*自分が変われば周りも変わる

 医療行為において重要となるものの一つに清潔操作がある。専門教育を受ける中で培われる個々人の清潔観念がそれに反映されるが、ここでは専門教育を受けていないナースエイドも医療行為に携わっており、 清潔操作の不確実が目立った。また教育を受けている看護婦も同じことが言え、個人差があった。 はじめは何一つ見ても息を呑むような光景が目に飛び込んでき、驚きの連続だった。

介助につきながら実際ナースの行動を指摘したところ、返ってきた言葉は「忙しいからいいの」であった。忙しい状況の中その手を中断させ、 突然あれこれ口うるさく注意を述べるのはどうか、今まで当たり前にやってきたことを指摘されることは、決していい気分ではないだろう、 どうしたら受け入れてもらえるだろうかとしばらく悩んだ。看護婦にもプライドがある。しかも日本のやり方が全て正しいとは限らない。

そう考えながら共に仕事をしていく中で、やむを得ないこと、これだけは譲れないこと等、整理がつくようになり、指導という形ではなく提案という形をとってみた。 またそれを発言するタイミングも、できるだけスタッフの仕事が落ち着いた時とし、その提案に対し意見を求めた。次第に少しずつではあったが理解が得られてきている手応えがあった。 しかし意識の変革は難しい。私がこの期間に行った事全てが定着したわけではないし、むしろ改善できたことの方が少ないくらいだろう。 意識改革は途上国の人々のみが難しいわけではない。世界万民に言えることだと思う。

相手に変化を求めるとき、まずは自分を見つめなおし、自分に働きかける事が必要と思う。自分の考えや気持ちの持ち様、 そして態度で相手への伝わり方も変化しそれが相手の意識を変えるきっかけとなり得るのではないだろうか。私はここにきてそんな貴重な訓練を受けさせてもらった。

*みんなに支えられての自分
 今回私が巡回できると許可を受けた地域はメッティーラ市の管轄内の全村落である。主に皮膚疾患が多く、栄養失調児や緊急搬送を要する患児はいなかった。

が、実際はメッティーラ市周辺にスラム街がいくつか存在し、その区域の生活環境は劣悪な状況に置かれているとの情報があった。 その区域こそ早急に医療の手を差し伸べる必要があると考え巡回の許可を求めたが、国レベルの問題であるためすぐに許可は得られないとのこと。 そこに足を踏み入れることはできなかった。もちろん勝手な行動は許されない。こちらが良かれと思って行動しても受け手にとってみれば反対にとられ、 AMDAの活動ができなくなるという大きな問題に発展する可能性もある。現地AMDAスタッフもその点については極めて慎重に行動しており、時にアドバイスを与えてくれた。

活動を進めていく上で国の背景を十分に理解することの重大さを教えられた。しかし事実を放っておく訳にはいかない。国レベルでの理解を求めて行かなければ根本的解決には至らないであろう。 メッティーラの村および区には医者は存在せず、多くの住民が医療を必要としているのである。

 僻地の村落を巡回するにあたっては多くの人々の協力を得た。普段、担当の村を巡回している看護婦,助産婦,村長さんや村のヘルスアシスタントが村の情報を提供してくれた。

車で村へ入っていけないときには村人が牛車を出してくれ、自転車で回れば道に迷っては大変と一緒に自転車をこいでくれる人がいた。道案内をしてくれる人、車が道に埋まって動かなくなれば助けてくれる人が、どこからともなくやってきてくれる。私はこの活動を進めていく中でこのような現地スタッフや地域住民に支えられて初めて活動が成り立つことを実感し、そこには地域住民のAMDAに寄せる大きな期待と信頼があるということを忘れてはならないと心に強く感じた。

<心に迫るスタッフの姿>
 問題多き子ども病棟ではあるが、そこで働くキンタンシ−医師を始めとするスタッフの献身振り、そしてチームワークの良さは目を見張るものがあった。 スタッフの共通の願いは患児が回復し元気に退院して行くことである。過酷な労働条件のなか限られた環境の中で精一杯、自分の与えられた使命にむかって懸命に努力している。

ものが無い。時間がない。忙しい。疲れる。よく聞く言葉だし自分もよく口にしていた言葉である。そんな自分がとても恥ずかしく思えた。 お金の出所を考えずに湯水のごとく使い捨て、常に新しいものや必要以上に便利なものを追求していく日本の医療。わたしもその医療のなかの一スタッフであった。

ここでは針一本たりとも無駄にはできない。それが患者家族の生活にも関わってくるのである。またここでは五感が最大の診察手段である。 医師の五感をフルに活用した診察は、ものに頼り切っている日本の医療従事者には到底及ばぬ技であろう。途上国の医療の現実を知ると同時に日本の医療とそこで働く自分を振り返る機会を持つことが出来た。 私はここに来て、人員不足解消になるべくスタッフとして恐らく一人分にも満たない働きしか出来なかったかもしれないが、何か一つでもこの子ども病棟の医療の質の向上につながるものが残せたのではないかと思う。

 私の退任後、私と同じ時期に日本で研修を受けてこられたナースが着任している。お互いが実際にお互いの国に身を置き、国の事情や文化を知ったうえで触れ合うことは国際協力において多くの効果を発揮してくれるに違いないと思う。


<終わりに>
 子ども病棟での活動に加え、メッティーラで過ごした時間はわたしに抱えきれないほどの心の財を与えてくれた。多くの人々との出会いと経験が私を成長させてくれた。 7年越しでやっと叶えることができた国際協力への夢の先には想像以上の難しさが存在したが、それ以上に現場に立っている自分への喜びと幸福感があった。

初めは不安も大きく気負いすぎる自分もいたが順応するのも早く、思っていた通りメッティーラも住めば都と化していた。そしてこの活動から得たことが更なる私のステップへの原動力となる事は間違いないと思う。

 ミャンマーという国は決して豊かな国ではない。しかし心豊かな人間は溢れている国である。人々の瞳、笑顔がそれを物語っていた。 いつまでもこのメッティーラに人々の笑顔が輝きつづけることを願って止まない。

 最後に私が初めての国際協力の任務を無事おえることができ、学び多き充実した日々を送ることが出来たのもAMDA関係者の皆様を始め多くの方々が支えて下さったからと感謝の気持ちでいっぱいである。ほんとうにありがとうございました。



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