ミャンマー

離任にあたって─「もがき、助けられながら」

AMDAミャンマー駐在代表  大森 佳世
AMDA Journal 2001年 1月号より掲載

 そしてミャンマーでは立ち上げにご尽力された吉岡先生。言葉ではなく、行動で実現させた人です。言葉では何だかんだ言っても、実際に行動できない人、途中で挫折してしまう人はいくらでもいます。それでもその気持ちだけでも立派なのですが、その中で、実際にこの国のために2年という時間をつくり、有言実行された姿は、心から敬服します。ミャンマーに来られるたびに、また日本へ帰国するたびに会って、ふざけながらもきちんと意見を交わします。お互いに真剣勝負です。また、桑田先生のアドバイスは、実務面でも助かります。帰国された後も、日本にいれば必ず会い、そしてミャンマーへも何回か来て下さり、その度にポツポツと「こういうのがいいかなぁ。」「ああでもない、こぉでもない。」と2人で頭をつき合わせては、仕事のこと、生活のこと、語り合います。

 その上で、ミャンマーで活動するにあたり、常に忘れてはならないことは、「軍事政権下での活動」ということです。 何でもかんでも報告、報告、報告。そして許可がなければ自分たちのプロジェクトサイトにさえ移動できない現実。

そういう状況の困難さは、この国で活動しているNGOの数の極端な少なさ(全部で30団体ほど)にも現れているように思います。 例をあげればキリがありません。半年くらいたったある日、メッティーラへ30分くらい電話をかけ続けてようやく通じたときに、 日本語が話せるスタッフのやさしい声を聞き、「ウソーテン…」と名前をいうや否や、ポロポロと涙が流れて、止まらなかったこともありました。

1人で責任を持ち、知らず知らずのうちにたまった緊張感。「大丈夫。私たちがついていますから。安心して下さい。」と、 いつもはこちらからの指示を受けて行動しているスタッフの優しい言葉を聞いて、切なくなったこともありました。 人のやさしさを感じずに、ミャンマーで活動した日はないでしょう。

 それでもここで仕事したいのは、「開発途上国の中でも極端に高い乳児死亡率」をかかえるミャンマーという国の現状に対して、 何とかしたいという気持ちがあるからです。

「私たちのターゲットはあくまでもコミュニティーであり、打倒政府ではなく、打倒病気である。 政府がどうであろうと、そこはAMDAという団体の目的としては関係がない。目的を遂行するために障害となる活動はしない。」 「欧米の民主主義の価値観をアジアという土壌に押し付けないで欲しい。日本のNGOとして、アジアに位置する国の一員として、独自性を持った活動をする。 自分が意識しようとしまいと、AMDAは日本のNGOとして人から見られているわけで、そういう意味では日本を代表しているつもりである。」 「その目標とする民主主義自体にも、140近い少数民族をかかえるこの地域で、根付かせようとすることに対して、疑問がないわけではない。 自由をさけんで銃に洗われているアメリカしかり、コソボしかり、インドネシアしかり。」様々な局面で、議論してきた内容です。 これが今の、AMDAミャンマーの精神的真髄になっていると思います。

 こうして仕事をするには、自分に余裕がないとできません。その意味で、仕事とプライベートのそれぞれの時間を大切にするためにも、 途中からは仕事だけに没頭することなく、息抜きや自分の時間を大切に使えたことが、仕事の面でも幸いだったと思います。 いつもおいしい日本食を作ってくれて、笑顔で話しかけてくれるヤンゴン事務所のラシーちゃんは、本当に神様のようでした。 ときにはミャンマー料理を教えてくれました。そして運転手のミンミン、夜警のジョージョなど、楽しい仲間に囲まれていました。 相棒のナンセンは、地理的には離れても、心の上では永遠の相棒です。

 プロジェクトを推進していく上で、医療スタッフではない私にはわからないことが山ほどありました。そのたびに深い見識のある上田先生や吉岡先生、 ソーナイ医師など、それがわかる医師に聞いて、解決できたことも幸運でした。

 ミャンマーでの生活は、大変な面もたくさんありました。停電が激しかった頃はパソコンも冷蔵庫もエアコン、FAXも使えない状況でも、 日常業務をストップすることはできません。暗闇の中で作業をしたり、電気がある夜中に徹夜して、申請書を書いたこともありました。 寒い冬に夜風に吹かれながら、蝋燭の灯りのもとに集まって、人々と議論を交わしたこともありました。ダニや虫に噛まれると、 痛かったり痒かったりする上に、常に傷跡が残ってしまっています。

ねずみが走るガタガタの列車で、1日中揺られて目的地まで到達しなければならなかったこともありました。それでも到着できるとうれしいのは、 国内の至るところにある検問所で、2週間前に申請して取得した移動許可書を所持していても、足止めを食らうことが頻繁だからです。 ふと間違うと崖から真っ逆さまという大きな石だらけの山道を、霧のために1メートルしか視界がない中、進んだこともありました。 度重なるタイヤのパンクで時間がかかりすぎて、それでも検問のためにも夜道を進むしかなく、ゲリラの存在に脅えながら当局の監視の下、 一晩かけて進みました。いくらお腹の調子が悪くても、相手から出された油の多い料理や山羊のお乳を右手で食べなければならず、 意を決して食べ物に手を出したこともあります。泥棒に入られたこともありました。地方で体調を壊して病院に担ぎ込まれたときは、 唯一の病院と呼ばれる施設が窓ガラスが割れて薄汚れたベッドが並ぶ中に寝かされて、点滴の針や薬すらないため自分たちで薬局へ走り、 買わなければなりませんでした。雨期には膝まで水につかりながら、移動を余儀なくされたこともあります。

どこへ行っても当局に監視され、自由に行動ができないこともありました。プロジェクトで大きなお金が動くため、 スタッフの間で不正が生じて言い争いになり、どちらもひけずに怖い思いをしたこともありました。そして一人でかかえる仕事量の多さに睡眠不足が続き、 責任の重さに頭が混乱しそうなときもしばしばでした。プロジェクトサイトへの道の悪さ、通信事情の悪さなど、大変なことをあげれば、 おそらくキリがありません。

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