コソボ

コソボ地域医療再建プロジェクト(HoRP)の完了
「希望」を託して


AMDAコソボ 濱田 祐子
AMDA Journal 2003年 2月号より掲載

はじめに

「ホープ(HoRP)→希望」、これが「コソボ地域医療再建プロジェクト(Hosptal Rehabilitation Programm in Kosovo)」の愛称です(以下ホープ)。このプロジェクトのアイディアはネジール君というコソボの男の子とのAMDAのお付き合いから生まれました。

1999年の紛争当時3歳だったプリズレン出身のネジール君は、小児ガンの一種「網膜芽細胞腫」という眼の難病を抱えていました。当時緊急救援活動をコソボで実施していたAMDAは、緊急手術のためネジール君を日本につれてきました。日本中から小さなネジール君の命を救おうと様々な支援が寄せられました。 その甲斐あって、かれは生命をとりとめ、大きな美しい眼を輝かせながら他の子どもたちと共に遊んでいます。今でも日本語を少し覚えています。私たちは、このネジール君との経験を通して、小さな命を救うために希望を決して失わないように行動する、ということを学んだのでした。

この教訓の下、AMDAはコソボの医療システムを改善したいと強く願い、ホープを実現させるために一生懸命働いてきました。交渉、準備、プロジェクト実施に約3年の年月がかかりました。今この3年の努力が、4ヵ所の診療所完成、90人以上の現地医師へのトレーニング実施、という形で成功を収めることができました。

この機会をAMDAに与えてくださった、日本政府、国連開発計画(UNDP)、国連人間安全保障基金事務局にこの場を借りて御礼申し上げます。また、プロジェクトをすすめるにあたり日本の支援者の皆さん、コソボ住民の皆さん、地方自治体、国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の多大なご支援とご協力にも深く感謝しております。

AMDAはこのプロジェクトによって、州内4ヵ所で約10ヶ月間の家庭医養成トレーニングを行い、合計90人以上の医師に対し新たに基礎技術や知識の普及を図りました。

また、診療所を修築、新築しました。これらアルバナ診療所(プリズレン県)、ペヤ診療所(ペア県)、ロジャ診療所(ペア県)、バニャ診療所(イストック県)は、それぞれの地方自治体に引き継がれました。今後は自治体と住民の皆さんが管理運営にあたられます。こうしてホープは完了しました。

知識や建物と同時に、私たちが学んだ「希望」もコソボの人々に引継ぎがれねばなりません。建てられた医療施設がだれにも平等に対応し、コソボの医療の現状を向上させるという希望です。開所後の診療所には、より丁寧な、より正確な治療を受けたいという患者さんがたくさん集まってきています。

AMDAコソボ難民緊急救援
プロジェクトの流れ

1999年、ミロシェビッチ大統領が進めたユーゴスラビアの民族浄化政策により、セルビア兵に居住地から追われたアルバニア系コソボ人が、アルバニア、マケドニア、モンテネグロ等の隣国に難民として出国。それに対して、NATOが民族浄化政策をやめさせようと空爆を始めた。 ところが、逆にアルバニア系住民の国外排出が激化。ユーゴスラビア国内であるコソボ自治州のアルバニア系コソボ人住民約200万人中、約90万人が難民となった。アルバニアには約60万人が流れ込んだ。

1999年4月〜7月

NATOの空爆開始後、コソボ難民救援プロジェクトを開始。医療チームをアルバニアに派遣。

  1. コソボとの国境に近いクケスにて難民へのモバイルクリニックによる巡回診療と現地救急病院での診療活動
  2. 首都ティラナで難民キャンプとなったスポーツコンプレックスの浄水プロジェクトを支援
  3. ドュラスにてモバイルクリニックによる巡回診療活動

1999年6月

NATO空爆停止合意を受け、急速な難民帰還に対応するため、難民と共にコソボ自治州プリズレン県内に入る。コソボ自治州内での医療救援活動のための現地調査実施。

1999年7月〜2000年3月

コソボ自治州内プリズレン県および周辺にて救援活動を開始。

  1. プリズレン市内のプリズレン診療所、クルーシャ村診療所、ジャコバ市内のジャコバ診療所、ルゴバ市のルゴバ診療所を開設。診療所内修理、医薬品・医療器具の配布
  2. クルーシャ村、ペア県ザトラ村、プリズレン病院小児科へのパン、ミルク、ビスケットおよび特別栄養食料等配給
  3. プリズレン病院小児科、ヘルスハウス等への医薬品・医療器具の配布

*1999年8月

コソボ難民救援プロジェクトに関わるプリシュティナ大学病院外科・麻酔科の医師2名が、8月17日に発生したトルコ地震への緊急救援プロジェクトにAMDA多国籍医師団メンバーとして参加し、トルコで医療支援活動を実施。

車両を診療所にした巡回診療
車両を診療所にした巡回診療

AMDAコソボプロジェクト
事務所のこれまで

緊急救援活動の中で

コソボ事務所は1999年7月に、近隣諸国から州内に帰還した難民救済を目的に、州内で日本政府拠出の緊急救援を開始しました。他のNGOや国連機関との連携のもと、AMDAはプリズレン市、クルーシャ村、ジャコバ市、ルゴバ市の4カ所に無料診療所を開設しました。 これらの診療所は2000年3月まで計1万2千人以上の人を治療しました。

また第2次医療機関であるプリズレン病院、プリシュティナ大学病院にも医療設備の修復、医療器具配布等の協力を行いました。プリシュティナ大学病院では日本の医療企業である「松本グローバルメディカ」様より寄贈された眼病治療のためのレーザー機器を用いる治療室を設置しました。 ネジール君の手術に伴い、金沢大学附属病院でトレーニングを受けたガズメンド・カチャニク医師が、今でもコソボでは唯一のレーザー治療を行い、糖尿病のために視力の低下した人などに治療を実施しています。レーザー機器運搬に際しては、日本航空株式会社様および欧州安全保障・協力機構(OSCE)よりご協力をいただきました。 このレーザー治療室の設置を境に、AMDAの活動は緊急救援活動から、長期開発を視野におく復興支援活動へとステージを移行したのでした。

復興支援

2000年6月に、「コソボ地域医療再建プロジェクト(ホープ)」という復興支援プロジェクトが、UNDPの主導により実施されることが決定しました。このプロジェクトは紛争で破壊された医療施設を復旧し、コソボの医療システムを立て直すことを大きな目的としていました。 その目的を果たすためにはまず、今までのコソボの医療システムにはあまり馴染みのなかった、プライマリヘルスケア(PHC)の推進をうちだす必要がありました。

コソボでは社会主義体制下にあったころは、医療サービスに関して受診者は一方的に受身の立場でした。しかし医療職による高度かつ高価な医療サービスではなく、経済的な保健管理および衛生保全を主として、疾病予防と健康促進を重視するPHCは、一般住民がその地域状況に応じた健康づくりの主体となれるという点が画期的でした。

また、PHCを重視する政策に沿って、「家庭医」を育成するという戦略がたてられました。家庭医は、日本にもみられない制度です。家庭医は地域の診療所など第一次医療施設にいて、個人の傷病の手当を行うだけでなく、世帯の構成、地域文化、加齢などを総合的包括的に考慮して予防や健康づくりも促進します。 重篤な患者は大きな病院の専門医に紹介し、また予後の生活の助言も行います。つまり、地域社会において、PHCの普及者であり、推進役となるのが家庭医なのです。

AMDAではUNMIKの設けた規定と、地方自治体や世界保健機構(WHO)と密に連携し、人口がコソボで2番目に大きいプリズレン県、とくに大きく破壊されたペア県とイストック県の4カ所の診療所を整備し、コソボでもっとも争いが絶えなかったミトロビッツアとフェリザイの2ヵ所を研修場所として家庭医の養成にとりかかることにしました。

ホープは2001年11月から正式に開始され、13ヶ月間で3万9千人もの住民をカバーする4カ所の診療所を完成させ、90人の家庭医育成を成し遂げました。診療所は現在自治体によって運営されており、毎日各診療所に患者数が90名にも及ぶことがあるそうです。

診療所には様々な工夫がなされています。まず、いわゆるバリアフリーで高齢者や身体の不自由な方にも使いがってのよい設計、管理費の節約と環境保全に配慮した太陽光発電システムが完備されています。また各室の機能を特定の言語ではなく、扉に掲示された「案内板」の絵で表し、民族言語の繊細な問題を考慮した工夫もなされています。 この案内板はデザイナーの西尾年之氏がご寄贈くださったものです。

また、待合室には在ユーゴスラビア日本大使館からいただいた日本の風景写真が飾られ、日本文化を紹介する雑誌が置かれ、日本文化をコソボの人たちに知っていただく空間にもなっています。また、岡山市のボランティア団体「あじさいの会」様より寄贈されたぬいぐるみもおかれ、子どもたちのよい遊び相手になっています。

住民と共に進めるプロジェクト

ホープの実施にあたって、最も重要になった点が二つあります。ひとつは地域住民参加を推進することです。

プロジェクト計画案をたてるうちに、地域住民の意見が政府機関の意見に押され、十分に取り入れられていないということに気づきました。そこで、最終的に受益者となる住民の意見がプロジェクトに反映されるような機会を設けるように心がけました。

例えば、診療所の建築を発注する建設会社や医療機材を購入する医療器具会社を決定するための公開入札、診療所建設中に行った建設批評会への参加。また起工式や開所式等、要となる式典では、住民が主体となる要素を盛りこんでいきました。 これらの住民のホープへの参加を促進していくにつれて、住民たちの団結が強まり、診療所を軸に地域を活性化させようとする動きがあちこちで見られたのはとても嬉しいことでした。

アルバナ村の女性たちへの保健衛生教育がその代表的な例です。小児科系や婦人科系等お母さんたちのとくに気になる主題を選び、専門家を招待して疑問をぶつける、という形式の会合が行われました。専門家には、保健省の幹部が派遣されました。 この保健衛生教育により、女性たちの健康に関する意識、知識を高めると同時に、今まで女性たちが直接接触がなかった政府機関との協力関係にまで発展するきっかけになりました。さらに自信をつけた女性たちからは、自分たちが作った手工芸品を売って生計の足しにしたいと提案も生まれ、実際に販売をはじめました。

地域の男性たちは、診療所の隣に公民館を設置し、診療所と公民館をつなぐ通路を新たに作りました。石を敷き詰めて通路にし、診療所の庭でスタッフがくつろげるようにしました。また、自治体と共同で診療所の前の道路を整備し、新しく下水道管を敷く等、地域づくりに精を出す様子が見られました。

また診療所で雇用される医師や看護師等のスタッフを地域から選ぶように市と粘り強く交渉したり、公開入札で選ばれた建設会社に地域住民を雇うようにとりつけたり、失業率が高い地域の雇用状況を改善させる試みもなされました。住民参加が住民たちの自信と意欲を向上させ、地域を活性化させる行動につながったよい例だったと思います。

もうひとつ、ホープの遂行にあたって重要視した点は、プロジェクトの透明性です。特に診療所を建設するにあたっては公開入札、モニタリング制度を取り、縁故で発注することを避けました。建設会社、医療機器販売会社は公開入札で決定され、公平で高い競争を勝ち抜いた会社に建設工事や医療機器の調達を受け持ってもらいました。 血縁による関係構築が当然のコソボでは、この公開入札は非常に難しいことでしたが、経費節減にもなり、結局はホープとAMDAに対する信頼性もあがり、プロジェクト成功への大きな鍵になりました。

さらに地方自治体、国連、地域住民など関係者にプロジェクトの進捗状況を報告する一環として、建設現場視察をモニタリングの機会として導入しました。建設中にこの現地視察を実施し、プロジェクトの経過を自分たちの目で見ていただき、さまざまな意見評価をいただくことがプロジェクトの質を向上する大きな要素となりました。

このように地域住民参加型、透明性を持った活動がより効果的な結果をもたらす要因となったと確信しています。

希望を託して〜これからのコソボ〜

コソボの行政体が確立され、UNMIKから各自治体に自治権が委譲され、また国際機関の多くがコソボを去るなか、住民も自立に向けて歩み出しています。

ホープによって建てられた診療所も国際機関にその管理運営を頼るのではなく、今は保健省によって管理されています。しかし,その反面、他の民族との共存という大きな課題があります。 今でも、家族を殺された、家を焼かれた、歩けない母親を背負って必死の思いで国境を越えて逃げた…など、忘れることができない記憶が、人々の心の奥に残されています。

すでに触れたように診療所内の部屋の表示を絵にしたり、開所式のセレモニーの際、セルビア系、アルバニア系、ロマ系の若者が共に太極拳を稽古する団体が演武を披露する等、民族問題を越えようとキる試みがホープにおいてもなされました。

ホープの完了、現地住民と行政機関の自主的運営を機に、AMDAはこのコソボを後にします。これからは住民自身が自分たちの手でどのように和解に踏み込むかがコソボの将来の方向付けを左右すると思います。

コソボはあのマザー・テレサが生まれたところです。争いと憎しみの火種が残るコソボには、マザー・テレサが自分の生き方を通して託してくれた希望をもった行動が必要なのではないでしょうか。




緊急救援活動

アメリカ

アンゴラ

イラク

インドネシア

ウガンダ

カンボジア

グアテマラ

ケニア

コソボ

ザンビア

ジブチ

スーダン

スリランカ

ネパール

パキスタン

バングラデシュ

フイリピン

ベトナム

ペルー

ボリビア

ホンジュラス

ミャンマー

ルワンダ

ASMP 特集

防災訓練

スタディツアー

国際協力ひろば