コソボ

Listen to the silence.
沈黙ヲ聞ケ


阿利 明美
AMDA Journal 2001年9-10月号より掲載

はじめに

コソボは、ある意味では日本からもっとも遠い地です。皆様にはご支援をいただきながら、現状をお伝えすることすら困難を覚えることがあります。今号と次号でご紹介するのは、濱田 祐子(AMDAコソボプロジェクト事務所駐在代表)の友人である、阿利 明美さんのコソボ訪問記です。

昨年阿利さんは、その遠い地に出向かれました。つかの間の滞在ながら、有刺鉄線を廻らされ警備兵が守る建物や、盛土も真新しい無数のお墓を目にして、人々の沈黙から言葉にならない言葉を聞き取られました。

受け取ったもののあまりの大きさに、ご本人もなかなか整理がつかなかったようですが、今回ジャーナルでご紹介できることになりました。活動報告ではありませんが、是非皆様のお目にかけたいと思います。(編集部)

プロローグ

コソボ南部の中核都市プリズレン。11月中旬の気候は、日本のそれとほぼ変わらない。厚手のニットにシャツを羽織れば、十分しのげるくらいだ。幅約10メートルほどの浅い小川を囲む様に、れんが造りの家々や、カフェ、商店が点在している。 町は少々ほこりっぽく、所狭しと路上駐車されているドイツ車や時折見かける日本車は、真っ赤も黒も、大抵は白くけぶった色をしていた。


夕方のプリズレン市街

コソボは岐阜県の人口とほぼ同じ、約200万人が住むセルビア共和国内の自治州。現在、人口の約9割がアルバニア系、残りがセルビア系、トルコ系、ロマ系などの少数派が住んでいる。北はセルビア共和国「本土」、西はモンテネグロ、南はアルバニア、マケドニア両国に囲まれている。

私が訪れた2000年11月は、1999年6月の北大西洋条約機構(NATO)による空爆停止から1年半がたっていた。セルビア系の迫害を受けて隣国アルバニアなどに逃れた数10万人と言われたアルバニア系難民のほとんどは帰還し、コソボ紛争のきっかけを作り出したミロシェビッチ元大統領政権が終了。 新しく<穏健派>のコストニッツァ新政権が誕生して、コソボ自治州内で地方選挙が行われた直後だった。

プリズレンの昼下がりには、川沿いのオープンカフェで、ひげもじゃの男性がおしゃべりする姿が、あちこちで見られた。橋のたもとでは毎日、おじいさんが何十年も使い込んだと思われる鉄板で、小粒のクリを焼いている。 おじいさんの顔はクリと一緒に何十年も焼き続けたように、てかてかといろよく焦げ、にっと笑った目じりには、年輪のようなしわが浮き出ていた。 学校帰りの子どもは、クリを求めておじいさんの周りに群がるのが日課のようで、カメラを向けると、たくさんの笑顔がレンズを見つめて、ピースサインを向けて来た。

一面、焼け野原だったという街は、再出発しようとしていた。そこかしこで、新しい家を建てようと家族総出でれんがを積み上げたり壁にしっくいを塗ったりしているのに出くわした。緊急支援を続けていた各国の非政府組織(NGO)も、引き潮の様に引き上げていたさ中だった。 

その一方で、セルビア系住民に対する報復は続いていた。 アルバニア系が帰還するのに前後して、「差別者」の側に立っていたセルビア系の多くがコソボ外に逃亡しており、約2万人が、セルビア共和国の首都ベオグラードで、政府からの十分な援助も受けられないまま、難民生活を送っていることも、あまり知られていない。

そして、現在でもなおアルバニア系とセルビア系の衝突を防ぐために米、英、独軍など五か国の兵士4万人がNATO軍を主体とするコソボ国際安全保障部隊(KFOR)として駐留している。

クリのおじいさんの隣には駐留中のドイツ軍の戦車が3両、基地から毎朝律義に通ってくるという。おじいさんが陣取っている橋の反対側のたもとには20歳前後と見られる童顔のドイツ人兵士2人が戦車を背後に控え、ナップサックのような気軽さで機関銃を肩から下げて見張りに立っていた。

背景

「アッラァァァァー・アクバーァァァァル(唯一なる神は偉大なり)」。プリズレンでは朝五時過ぎに、失礼ながら騒音と変わらないくらいの大きさで、イスラームの祈りへの呼び掛け「アザーン」が、地域のスピーカーを通じて朝もやの谷に響き渡る。

コソボで迎えた始めての朝。前夜しこたま飲んだ二日酔いの頭には、早朝の聖なるアザーンは、フライパンを耳元で鳴らされるくらいに響いた。寝ぼけまなこをこすりこすり、「アラブに来たのだったっけ?」と、働かない頭を働かせた。 「旧ユーゴは ヨーロッパの一部」と思い込んだまま現地を訪れていたから、 アザーンはまさに「寝耳に水」だったのである。 しかし、よくよく考えると、14世紀からオスマン=トルコの支配を約350年間受けてきたこの地に、イスラームの影響が色濃いのは当たり前だ。コソボの人口の9割を占めるアルバニア系の多くはイスラーム信者なのだから。

その日はさらなるアラブのにおいが襲ってきた。少々硬めの食パンと目玉焼 きにオレンジジュースといった朝食を終えた後、ホテルロビーのトイレのドアをあけて、度肝を抜かれた。そこにあったのは、和式と同様しゃがんで用を足し、紙ではなくシャワーで汚れを洗い流す、見事なまでのアラブ式だったのである。 もちろん、客室内のトイレは見慣れた洋式だったから、初日は全く気づかなかったのだった。

落ち着いて街を見渡すと、朝の冷たい空気の中、オスマン=トルコ時代に建てられたと思われるアラベスクの色あせた小さなマスジッド(イスラームの礼拝所)や、アラブの大衆浴場である石造りで円屋根のハンマームが、赤屋根でれんが造りの家々の間に、なんの違和感もなく存在していた。

コソボの生活のそこここには、「アラブ式」が素知らぬ顔をしながら、過去のオスマン=トルコの支配を主張していた。

もともと、アルバニア系はキリスト教徒だった。しかし、オスマン=トルコの支配下に、その様相を変えていったのである。イスラーム支配は異教徒にも寛容な政策をとるが、イスラーム信者の方がより有利であることも手伝ってか、改宗する人々が多かったようだ。 かといって、アルバニア系はそれほど熱心なイスラーム信者ではないため、コソボ紛争をイスラーム対セルビア正教の闘いと考えるのは誤りだろう。

プリズレンの中心部高台にある小さなマスジッドを訪れた。日本で言えば、ちょっとした豪邸くらいの大きさ。タイルがはげ、壁は石がむき出し。建物の中は、アラベスクも、床に敷き詰められたじゅうたんも色あせている。 高い窓から入る光りの筋が、浮遊する埃を浮き立たせていた。


プリズレン市内のマスジッド(イスラームの礼拝所)

普通、マスジッドに異教徒が入るのは嫌われる。しかし、入り口で、無遠慮に中をのぞき込んでいた私を、中にいたおじいさんたちは、手招きして迎え入れてくれた。平日午後1時すぎのお祈りに参加していたのは、おじいさんばかり約十人。 中には、白く高いアルバニア系の伝統的な山高帽子をかぶっている人もいる。

祈りが始まると、太く低い声やしわがれ声のコーランの唱和が、薄明るい石のドームに低く響いた。じゅうたんに正座したり、ぺたんと座り込んだりして、祈る。 両手の平を自分の方に向けて目を閉じる姿は、やはりイスラームだと感心した。ところが、ほんの数分ほどでお祈りは終わり、おじいさんたちは世間話もせず、あっさりとマスジッドから出ていった。

「われわれはもともとクリスチャンだった。オスマン=トルコの支配のもとで、改宗せざるを得なかったんだ」といってイスラームに反発し、ヨーロッパをよりどころにしようと、先祖がキリスト教徒だったことを持ち出すアルバニア系もいる。 アルバニア系にとってイスラームへの信仰心は、日本で言う神道や仏教と同じようなものかもしれない。

アルバニア系は、自分たちこそ紀元前からこの地に居住していたイリリア人の末裔だと主張する。いっぽうでセルビア系は「コソボをセルビア人父祖の地」と呼んで強い執着心を持っている。 7世紀、バルカンに移住してきたセルビア系は、コソボを中心にセルビア王国を作り、13世紀には北はドナウ川から南はギリシャまでにいたる広大な領地を手にしていたことを大きなよりどころとしている。

しかし、セルビア王国は1389年、オスマン=トルコに攻められて陥落し、イスラームによる支配が18世紀まで続いた。 この間、オスマン=トルコは、王国を滅ぼされて強い恨みを持っているセルビア系を追いたて、イスラームに改宗したアルバニア系を多く移住させたという。

第二次世界大戦後に、「モザイク国家」と呼ばれたユーゴスラビア連邦をそのカリスマ性でまとめていたチトーが1980年に亡くなると、分権化政策が崩壊。 当時のコソボはセルビア共和国内の自治州としてかなり強い自治権をもっていたが、圧倒的多数のアルバニア系がさらに独立を求めるようになっていった。 1980年代後半には、コソボ内に住むセルビア系への迫害が激しくなり、セルビア系はしばしばデモを行って抗議していた。このデモが逆に、先鋭化していき、そこにミロシェビッチが登場したのである。

プリズレンから、東へ2時間ほど車を走らせた。頂上付近に雪を積もらせた高山が見える一本道。その両わきには一面に、コソボ特産のタマネギ畑が広がっている。その何もない畑に、突然、数えきれないほどの真新しい「団地」が出現した。 清潔そうな真っ白の壁に、オレンジ色一色の屋根が延々と立ち並ぶ。ここは元「セルビア系入植地」だという。

ユーゴ政府はコソボ自治州のセルビア系人口を増加させようと、移住政策をとった。周りに何もない田園地帯を買い取り、無償で住宅を提供し、税金も破格の待遇。 コソボの豊富な鉱山資源は、セルビア共和国にとって大きな魅力だったし、何より、9対1という圧倒的多数のアルバニア系に数で抵抗しようとした。

中東のイスラエルも、パレスチナの土地に同様の入植計画を行っている。パレスチナ人の村の目と鼻の先に、政府の政策で近代的なマンションがたち、都心部からユダヤ人が多く移住している。 パレスチナの土地の「実効的支配」を進める政策は、現在でもなお、進められている。しかし、コソボの小奇麗な入植用ニュータウンは、ゴーストタウンになっていた。

結局、セルビア共和国から、対立の色の濃い土地に好んで来る者はいなかったのだ。

にもかかわらず、いくつかの家の庭で、干された白いシーツなどが風になびいているのが見えた。皮肉なことに、家を焼け出されたアルバニア系住民がどこからともなくやってきて、住み始めているのだという。 しばらく車を進めると、今度は、コンクリートのグレーの外壁がむき出しになったままの団地が連なっていた。建築途中で放り出された「入植予定地」だった。

2000年11月半ば、7泊8日のちょっと遅めの夏休みを取って、知人のAMDAコソボ駐在代表、濱田祐子さんを現地に訪ねた。 コソボ紛争が世界の報道機関をにぎわしていたころ、私は仕事を始めたばかりで、新聞の国際欄を開いて無機質な活字に凝縮された数十万の難民の悲しみに思いをはせる余裕などなかった。 ふっと気がつけば、報道の上では紛争は「終了」していた。

一年半がたって、コソボを訪れようと思ったのはほんの思いつきだった。

関西空港から、約10時間でウィーン着。そこから約1時間で、マケドニアはスコピエ空港に着く。タクシーを拾って約40分でコソボ国境。彼の地は思ったよりも、近かった。

人々は難民としての生活を強いられた人々とは思えないように、一見、穏やかに日々を送っていた。しかし、いったん口火を切ると、さっきまでジョークを飛ばしていた口から凄惨な話が次から次へとあふれ出した。 静かな笑顔の下で、えぐられた傷跡から今も血が流れ続けている音を聞いた。

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