コソボ

遥か遠いコソボより感謝を込めて
AMDAと日本の支援者の方々へ


看護婦 アイシャ・シャラ・医師 ニヤジ・シャラ
翻訳  鈴木 剛史
AMDA Journal 2000年 4月号より掲載

 1999年5月。その時を私は今はっきりと思い出すことができます。

 疲労と不安の中、Durresの町をどこに行くでもなくさまよい歩いていたあの時。その時の私には、帰る国も、生きていくためのお金も物もなく身一つ、私はアルバニアの地でひとり途方にくれる難民でした。そして、その希望を失いつつあったまさにその時に偶然、AMDAというIDカードをつけ、同じ人間として手をとりあっていっしょに前進しよう、とその活動への参加に誘ってくれた外国人に邂逅しました。

 その後まもなく、AMDAというのがAssociation of Medical Doctors of Asia の頭文字をとったもので、1984年に設立され、政治、宗教に中立な非政府・人道援助団体であることを知りました。小児科医として、私は喜んでこの名誉なミッションに参加、家を焼かれ自分の住む土地から追いだされたコソボの人々など、助けを必要とする人をアルバニアのあらゆる場所で探しだし、援助の手を差し伸べるという活動に従事しました。

 これがまさに そっ啄、私たちコソボ人とAMDAの長期にわたる協力関係の始まりでした。活動は簡単に述べると2つの時期、あるいは2つの場所にわけることができます。一つがアルバニア(Durres及びその周辺地域)、もう一つがコソボ自治州(Prizren及びその周辺地域、Rahovec及びその周辺地域、Gjakova及びその周辺地域、Prishtina)になります。

 DurresでのAMDAの援助活動は、私の人生のなかでどんなことがあっても忘れることのできない経験の一つです。その活動は1999年の5月頃開始され、その時は私と他数名のコソボの医療スタッフのみで活動しました。活動内容は主にコソボ難民に医療サービスと医薬品を提供し、難民の健康状態を保つことでした。

この時期からコソボ自治州に(AMDAと)帰還する6月中旬までの間、Durresや様々な場所にいる難民のシェルターなどを訪問、数多くのコソボ難民、特にお年寄りや子供など弱者と呼ばれる 人々の健康状態の改善・保持に貢献しました。

 おそらくAMDAは一団体としてその規模も小さく、資金も限られています。ただAMDAで働く人の心は広く気高いものだったと言えます。天候がどうあろうと昼夜も問わず、また暑くとも寒くとも何か起きて必要とされればすぐにかけつけるAMDA。この間、診察の場を数箇所開設し診療にあたりました。同時に元々その土地の住人で病気にかかった人や貧困者の診察や医薬品の提供も実施しました。

 Durresでは、AMDAと私たちは、コソボから逃れてきた人が住み着く場所を想定しながら、長期のプロジェクト同様、緊急援助活動やそのプロジェクトの草案の作成をすすめました。結果的にコソボが解放され、難民が帰還したためこの必要は無くなりました。

 この状況下AMDAも難民とともにコソボに入り、焦土と化した危険で物騒な土地での医療活動を開始しました。またAMDAは、貧しい人、火あぶりにあい傷を負った人々に手を差し伸べ、Dukagjini中どこでも必要とあれば村から村を駆け回りました。

 コソボでのAMDAの活動は(アルバニアに比べ)規模が大きく広範囲に及びました。そこではまずDurresでの活動を考慮しながら、戦争の傷を負った人々ができるだけ早く通常の生活に戻れるような治療を実施する為のプロジェクトの草案作りを開始しました。その中でAMDAは、常にその土地の文化を尊敬し、人々の自立を促し、その結果得られる参加メンバー間の信頼感を大事にすることで、A better quality of life for a better futureというスローガンを実行に移していきます。

 まず最初の数日はKrusha e Madheやその周辺地域、Gjakova、Prizrenなど一番戦争の被害が激し かったところを中心に緊急医療活動を実施。AMDAの援助の結果、国にとどまったものも、アルバニアから帰還したものも、コソボの医者、医療スタッフから最初の医療サービスを享受できました。

AMDAが開設した最初の診療所は、Prizren、 Rogove、 Gjakova そしてKrusha e Madheにあり、そこでは地元で医療スタッフが雇われました。これらの診療所では地元の全年齢層の人々が適切な診察を受けることができ、それによって生きる勇気と希望を与えられました。また同時に医療スタッフを資金面で援助(給与の支払)することによりAMDAは彼らに社会的援助を提供したといえます。

 1999年6月中旬から2000年の2月にかけて、様々な年齢層の1万人にわたる患者を診察しその病状にあった医薬品が提供されました。そしてこれらすべての人々がAMDA及び日本の支援者の方々に、つまり地理的にははるか遠いところにいるにも関わらずその心は限りなく近く感じながら感謝の意を表明しているのです。

ここで、いわば私たちの間に、友情の第一番目の橋が架けられたのです。AMDAはどこに行こうとも、そこでは、苦しみを味わっているけれどプライドを失わず、一番厳しいときに手を差し伸べてくれたことに感謝している人に遭遇しました。

 AMDAが日本・アルバニア協会と共に、あの幼く、治療不可能な難病(網膜芽細胞腫)をわずらい、コソボの破壊された医療機関では適切な治療が受けられなかったネジールを助けてくれたことは、まだ記憶に新しいことです。ネジールは日本の人々の助けをかり、日本の病院に搬送され長い期間にわたる治療を無事終了しました。また、これだけでなくPrishtinaの医師を日本に招待し、ネジールだけでなく他に同じ病気を持った人を助けるための研修も実施してくれました。

 またその眼の病気治療のため、最新のレーザー機器を提供していただきました。改めて、心から感謝します。私の国では、このような事を以下のように表現することがあります:善意には善意でお返しを。

 高価な薬剤が必要だが、お金に余裕がなくAMDA以外に頼れるものがない、といった例が数多く見られました。たとえば、戦争中にめがねを壊してしまったがそれを購入するお金がない患者さん(AMDAが代わりに購入)、また脳性麻痺でずっと動けないでいる患者さん(AMDAは彼女を訪問し、励ましの言葉をかけています)。まだ数えきれないほどこういった例があり、私はアジアそして日本の友人がAMDAという団体を通して助けてくれたことを思い出すたびに誇りに思い、あついものが込み上げてきます。

 戦後公衆衛生の分野で働いた医師はほんの初歩的な医療器具も持っていませんでしたが、AMDAの協力により聴診器、血圧計、体温計を使用できるようになりました。またPrizrenにある総合病院の泌尿器科病棟の援助も実施してくれました。また忘れられないのは、徹底的に破壊され焦土と化し200人もの住民が殺されたか行方不明になった、Krusha e Madheで苦しんでいる人々を助けてくれたことです。

 その援助は物質的、精神的の両面にわたりいまでもその活動は継続しています。またそこに住んでいる人だけでなく、そこで働く医療スタッフや診療所まで援助しています。衣食住の面でもAMDAには大変お世話になりました。感謝してもしきれません。

 私や他のコソボ国民のためにAMDAが払ってくれた多大な犠牲、その医療活動に対して感謝いたします。また一番厳しい時代に培われた私たちの友情が今後も続くことを祈ります。今後もより多くの支援を得て、コソボとその国民の経済的な再建・再出発に役立てたい所存です。

  最後になりましたが、AMDAの価値ある素晴らしい人道援助に対して再度心の底から感謝いたします。 コソボの同志、私の家族、妻そして私自身の名において、感謝いたします。本当にありがとうございました。
    
2000年2月 Prizrennにて



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