緊急救援活動

イラン南東部大地震をふりかえって

ー 私の緊急救援 −

老人ホーム舞浜倶楽部看護科主任 AMDA登録看護師  古村 由香
AMDA Journal 2004年 4月号より掲載

職場がお正月休みに入った初日の12月27日、前日は勤め先の大納会だったので、 少し朝寝坊をして朝刊に目を通しました。そこで初めて26日にイランで地震が発生 したことを知りました。AMDAは緊急救援するのだろうか?本部の佐伯さんと電話で話 をしてから24時間後には、手続きのため広尾のイラン大使館にいました。

私の夫はテレビカメラマンであり、夫自身もサハリンの地震、ホンジュラスのハリケーン被害やト ルコの地震のときに取材に出ています。その夫が、「すごく緊張しているんだろう?」 と心配そうに言うのです。私は特に緊張をしていたわけではありません。ただト ルコでの活動を思い出しながら、海外旅行の時よりは慎重に必要なものを準備し ていただけでした。夫は自分がホンジュラスで経験した交通事故を思い出していたようです。

出発前に私は、勤務先で参加した阪神大震災や初めてAMDAに参加したトルコ地震の 活動経験がどう役立つかを考えました。

阪神大震災のとき(1995年)は、勤務先の病院が救援チームを組み、5日目のチ ームとして、病院から長田区の高校に派遣され、教室を借りての診療活動でした。

このときの患者の特徴としては、避難生活の疲れや季節的なものもあり、 発熱、咳、頭痛など感冒症状が多かったようです。診療所には長い列ができて 混雑しましたが、高校生ボランティアの協力により機能的なシステムができました。 診察希望者から氏名、年齢、主訴を聞いてもらい、作成した診療ノートに記入し、内科 系患者には体温測定までを行ってもらいました。このボランティア学生さんのおかげで、 医師はすぐに診察に取り掛かることができ、 大勢の患者の待ち時間を少なくすることができました。

被災地は高速道路や鉄道の倒壊により、交通が寸断されており、建物が火災で 焼失していたため、トルコ、イランと比べると、状況は一番悲惨でした。また、 被災した人々は、学校の校舎、教室、公民館 などで生活していたため、プライバシーは保たれていないと感じました。

トルコ大地震のとき(1999年)は、わたしはAMDAに初めて参加しましたが、 すでに1次隊が診療のベースを作っていたので、私たち2次隊は新たな情報収集 をしなくても活動に入ることができました。山村の集会場での診療所、医療テン ト、巡回診療、学校の校舎での臨時診療所と様々な場所での活動が設けられていました。

トルコ共和国西部大地震緊急救援活動(右から2人目 筆者)
トルコ共和国西部大地震緊急救援活動(右から2人目 筆者)

私が担当したのは、このうち医療テントと巡回診療でしたが、患者の特徴として は日常の診療を受けられなくなった人が集まり、血圧だけを測ってほしいという 人も多くいました。高血圧や糖尿病の人が多かったのは、食生活が原因であろう ということが一目瞭然でした。トルコでの活動は日本、海外の医療職・調整員・ 通訳を含めると14、5人の多国籍チームでした。人が多い分、一人一人が担う作業も そう多くはありませんでしたが、人数が多くて足並みがそろっていなかったことも事実でした。

トルコでは、幹線道路の寸断は一部には見られましたが、イス タンブールから被災地であったイズミット、ギョルジュクまでの道のりには影響なく、 巡回診療はスムーズに行え、患者の中には日本からの医療チームに見てもらいたいという 人もいて、よく混雑しました。それだけでなく、被災者の多くは、私たち日本人を見かけると 、支援物資の食料やチャイを振舞ってくれたことが忘れられません。また、巡回診療に訪れたと ころの村人はパン、オリーブ、チーズの昼食を ご馳走してくれました。トルコの人々は本当に親日的だと実感しました。

また、今回のイランもそうでしたが、トルコでの被災者も診療の場で被災したと きの様子をよく話しておられたことが、けっして被災したときの様子を語ろうとしなかった 日本の被災者の方々とは対照的で、たいへん強く印象づけられています。

さて、今回のイラン大地震は、これまでのなかで最小の人数(4人)のチーム で活動しました。一緒に活動したメンバーを是非紹介したいと思います。

パレスチナやアフガニスタンで活動経験のある細村医師は、豊富な知識と落ち着いた姿勢で、 常にできる限りゆっくりと患者さんを診察していました。物静かですが、ユーモアのセンスも 持ち合わせ、またイラン人通訳の途切れのないおしゃべりにもいやな顔をせず付き合っていました。

調整員の佐伯さんはイスラム圏での活動が豊富なため、イランでの生活習慣 にも精通していました。私は挨拶、名前や年齢の聞き方など簡単なペルシャ語 を教わり、滞在中現地でのあらゆることをサポートしてもらいました。また、薬の知識や心的外傷を 負った人々への対応にも詳しく、私よりも若いのに頼もしい限りでした。

パキスタンから合流した小西さんは、持ち前のキャラクターで場を和ませ 、移動や活動で疲れた皆をホッと(?)させてくれました。私が20年以 上使っていた爪きりが壊れたときもすぐに修理をして「あと20年は使えるよ」と太鼓判を押してくれました。

このように頼もしくて楽しいメンバーの中で、私は自分自身の役割について考えま した。少ない人数で活動するので、決して無駄な動きはできません。そこで、私は自分 自身の役割を、@必要物品を的確に選択すること。A器械・器具が使いやすいように徹 底的に整理をすること。B薬の整理・保管 をすること。C毎日の受診患者の傾向をチェックすること、としました。

処置に必要な機械類はテヘランで協力してくれているマザヘリ医 師から借用しましたが、消毒をどうしようかと考えました。幸いなことに イランでは、一般の薬局で96%のエタノールが手に入ったので、タッパを購入 しエタノールの中に浸して消毒をする方法をとりました。タッパは数個用意を して、使いかけの薬を入れておくもの、テープ・はさみ・衛生材料を入れておく もの、体温計・舌圧子・ペンライトを入れておくものなど用途別に分けました。 イソジン綿球やアルコール綿は、日本から持参したジッパー付ビニール袋を使って 作りましたが、小さいタッパを使用したほうが便利であったと思います。医療施 設と違って、在宅介護や私が働く高齢者施設の場合は身近 にある材料を使用します。海外での緊急救援の場合も現地で手に入る材料で十 分にまかなえると思います。

実際に巡回診療が始まると、疾患の傾向や必要なものが見えてきたため、 買い足すのは容易でした。ただ、電子体温計・ペンライトやはさみは機能 や耐久性を考えると、日本から持参したほうが良かったかもしれません。

巡回診療を開始したのは地震から約一週間が経過していたので、予想通り 第一次の救急処置は行われていました。ただ、普段ならありえないような縫合 の仕方や、汚い傷をそのまま縫合したものや、継続して処置を行っていない人がほとんどで、 抗生物質を投与しなければならない患者さんが多くいたのが実状でした。

患者総数は300人余り、男女比では男性患者が60%と多かったです。また 、15歳以下の子供は約15%でした。疾患の傾向としては、予想に反するこ となく、外傷、呼吸器系疾患・感冒と 不安・不眠が多く見られました。内訳は、呼吸器系疾患・感冒が約48 % 、地震による外傷が約14%、不安・不眠を訴えたため薬を処方した患者が約 16%で、残りは高血圧や内分泌系の 慢性疾患、あるいは慣れないテント生活からくる体の痛みなどでした。

印象に残った患者が何人かいました。一人はマリアムちゃん、なんと地震の5時間後に 生まれたそうです。初日は右目に炎症が見られ、臍が少し汚いくらいでした。数日間診 察を継続していく中で、マリアムちゃんの愛らしい姿は被災した人々に生きる希望を与え ていたような気がします。彼女はスクスクと確実に、たくましく育っていました。

もう一人は、30歳台の男性です。左の肩が痛いといって受診してきました。 見たところ左の肩関節は確実に脱臼していて、背部には数ヶ所の擦過傷がありま した。彼になぜ病院に行かなかったのか聞いたところ、「家族や近所の人達の救援 のために病院に行っている暇がなかった。」とのことでした。 今日本の大都会で 災害が起こった場合、隣 人さえ知らない私たちは、お互いに助け合うことができるのでしょうか?

今回もたくさんの人々に出会いました。テヘランの開業医マザヘリさんは器械・器 具の提供だけではなく、現地での協力者をたくさん紹介してくれました。          

ケルマンの薬局で薬を仕入れていたとき、日本語で話し掛けてくれたレザさんは東北大 学大学院に留学中で、今回の地震で親戚が亡くなったために帰国中でした。滞在期間が 少ない中で、貴重な一日を私たちの通訳として費やしてくれました。 

イラン南東部大地震緊急救援活動(前列右 筆者)
イラン南東部大地震緊急救援活動(前列右 筆者)

また、巡回診療中に「自分の患者がきているので心配して」と言い4日間にわたって手伝ってくれた、 地元バムの開業医デリジャニさん、通訳のマフムウドさん、「知り合いを通じてAMDAを知った」と参 加してくれた理学療法士のマリアムさん、別れ際に彼 らが皆同じように言ったのは、「私たちイラン国民のために、遠 い日本から来てくれてありがとう」という言葉でした。中でも、マリ アムさんはメディアのインタビューで、AMDAの活動についてどう思った か?との問いに、「ほかの国や大きな団体は、たくさんの設備を持ってき ていますが、患者から訪ねていかなければなりません。しかし、AMDAは自 分達から進んで貧しい地域を回り、診療を行い、このようなチームは見たこ とがありません。すばらしい活動だと思います。」と答え、また、バムの人 々は今後どうなっていくと思うか?に対しては、「バムには歴史もあり、人 々は昔から、デイズ(ナツメヤシ)を育て生活してきました。イラン政府も しっかりサポートすると言っています。ですから、必ずバムの人々は新しい 町を作り、復活すると思います。」と答えました。イランの25歳の女性は本当 にしっかりとしていました。  

日本の友人たちからは、なぜ災害地や人の行かないところにいくの?と今回もよく質問されました。 きっかけは…と普段とくに考えていませんが、確かにきっかけはありました。看護師になって10年 くらいたった頃のことです。将来の夢を語りながらも、それがかなわぬまま血液疾患(白血病・悪 性リンパ腫)で亡くなっていった多くの若者たち、「小さい子供を残しては死にたくない」と言い ながら亡くなっていった母親、妊娠中に白血病と診断され、治療により子供を死産した母親、「私が 死んだらきれいに化粧をしてね」と言い、亡くなっていった19歳の女の子…、それから友達だった篠 原明医師

の死…彼の口ぐせは「体が動くうちは外(海外)に出て働く(活動する)」でした。この 人達は私の人生観や看護観に大きな影響を与えました。そして私は、自分が健康でい られるうちは、どこにでも出かけて行こうと思うようになりました。

周囲の人からは、よく「すごいことしているね」と言われますが、私自身はすごいことだとは思っ ていません。確かに私も自分自身がAMDAで活動するまでは、新聞やテレビで活動する人を見てそう 思っていました。しかし自分が実際に行ってみると、これって電車やバス の中で席を譲るときに似ているのかな?と…。お年寄りに席を譲るとき、断られたらと思うと少 しドキドキしませんか?でも「どうぞ」と声をかけ、「ありがとう」と言ってくれると、ホッと して安心します。席を譲っ てよかったなと思い、次は少しスムーズにできるようになります。まさにはじめの一歩を踏み出 すことが大切だと思います。席を譲るのも被災地で活動するのも…。会社の同僚が、「お年寄 りと一緒に近所のごみ拾いなどの活動がしたい」といっています。まさにそれと同じです、た だ活動場所がご近所か遠くの被災地かの違いだけです。

以前、元国連事務次長の明石康氏が「違いを愛する心を持つことが 大切だ」と、新聞のインタビューで答えていました。災害はどこにで も起こりうることです。いつ・どこで・誰が被災者になるかもしれま せん。そんな時、知らない人だから、知らない国だからといっていた らどうなるでしょう?違いを受 け入れ、お互いを認め合えば何の問題もないのではないでしょうか。

今回地震があった古都バムには、アルゲ・バムという最も古い部分は2 000年以上も前に建設されたお城がありました。その歴史的財産が地震 によって一瞬のうちに失われたのです。そこで暮らす人々は、家族を失 い、資産を失い、そして町のシンボルであったアルゲ・バムを失ったので す。当分は生きる希望が持てず途方にくれることでし ょう。そんなときだからこそ、私は被災地に向かうのだと思います。

阪神大震災、トルコ大地震、そして今回のイランでの活動を通して、 私は自分自身がなぜ被災地に出向いていくのかやっとわかりました。

人は自分の存在を他の人に認めてもらうことで、生きていることを実感でき るのではないでしょうか。何もかも失った被災地へ行き、そこで人々に触れ、今 あなたはここで生きているのだと言うために私は行くのだと思います。

AMDAインドネシア支部の緊急医療支援活動2

テヘラン入りしたインドネシア政府とAMDAインドネシア支援の緊急救援隊
テヘラン入りしたインドネシア政府とAMDAインドネシア支援の緊急救援隊

12月26日、イラン南東部での地震発生直後、AMDA インドネシア支部長 Dr. Husni Tanra はUsufukara福祉省大臣に電話で緊急救援隊の出動を要 請した。

当初 Usufukara大臣は、インドネシア国内で洪水や山崩れ等の自然災害が多発してい たため、イランに救援隊を出すことに対して消極的であったが最終的には出動を許可。

AMDAインドネシアの Dr. Idrus Paturusiを含むインドネシア政府の先発隊が12月30日 テヘラン入り。在イラン インドネシア大使 Ambassador Basri Hassanuddin に出迎え を受け、現地での活動について打ち合わせをした。

その結果、インドネシア軍、赤十字、AMDAインドネシア支部、Mer-C (NGO)で60名の救援 隊を編成し、1月3日、軍用機 Herculesでケルマン州ジロフ(Jiroft)に到着。 AMDAイ ンドネシア支部からは、下記医師が参加。
Dr. Idrus Paturusi (整形外科医)
Dr. Alamsyah    (麻酔医)
Dr. Nuralim (胸部外科)

AMDAインドネシア支部による診察風景
AMDAインドネシア支部による診察風景

ジロフには多くの被災者がバムから避難していた。インドネシア救援隊は野戦病院を設置し、 手術を含む治療を1,520人に実施。地震後のトラウマに苦しむ患者のフォロー、避難キャンプ での衛生および健康管理等についての指示も行った。ジロフには他の救援隊が入っていなかっ たため、また完全な無料診療(薬も含む)だったことから、予定数をはるかに超えた患者数だっ た。最初の一週間は来院患者の60%が被災者、2 週間目からはジロフの住民が増えた。疾患の 殆どが呼吸器系の炎症、下痢、および災害後トラウマであった。 3週間目からはバムへ移動し 、一週間で330名の患者を診た。

主にケルマン州バム およびバムから南西60kmに位置するジロフで医療活動とその他救援活動 を実施、1ヶ月におよぶ救援活動を無事終了し、2月4日に帰国した。




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