緊急救援活動

イラン南東部大地震緊急救援報告
AMDA Journal 2004年 3月号より掲載

回復への入り口となる医療支援

AMDA職員 小西 司

被災地の姿

12月28日、地震発生から2日目に辿り着いたイラン・ケルマン州バムの町の姿は 、もはや瓦礫の山と廃墟であった。「60%の家屋が損壊」との報道を聞いてい たが、すでにほとんどの家屋が倒壊、あるいは傾き、いずれにせよ居住可能な 家屋はほとんど無かったと言える。死者3万人に達した大震災は、この地方都市 を徹底的に破壊していた。銀行やホテル、電話局など、数少ない鉄筋コンクリ ート構造の建物だけがなんとか躯体を維持していたが、それとて機能を果せる 状況ではない。電柱の倒壊が少なく、街灯が早くに回復したことが、せめて市 民を暗闇に放置せずに済んだといえる。

この町を訪れたのは19年前の春だった。近郊にある遺跡「アルゲ・バム」の威容と相まって、砂漠の中の 小オアシス都市は観光客にも人気の場所だった。特産品のナツメヤシは品質が高く、近隣諸国へはもちろん 、欧米にまで輸出され、特に昨年秋の収穫はこの10年で最高にいいものとされ、周辺国で紛争の続く暗い 世相の中でも、バムの町を明るくさせていたという。

元来が古い遺跡とオアシス町を基礎にした観光地だった。このため家屋の構造やバザールの回廊には古典 的な建造物を保存していたため、近代的な耐震対策はほとんど見られなかった。暑さを凌ぐ厚く重いドーム 屋根のバザールと、レンガを高く積み上げた高い塀と厚い壁に囲まれた暮らしは地震でたちまち瓦礫となり 、凶器となったレンガが明けきらぬ庶民の暮らしに襲い掛かった。元来イラン北部と比べて災害が少なかっ たことは、日干しレンガを泥で固め積みあげただけの遺跡がこれまで維持されてきたことからもあきらかだ。 災害経験のない砂上の町は、一瞬にして崩壊した。

現地でのイラン政府の対応と医療状況

道路がほぼ無事であったことと、空港の機能が早期に回復したこともあり、道路と航空路を駆使した広域搬 送医療とその拠点としてのケア・ユニットが早くに立ち上がった事は、被災者救命に大きく貢献したことだ ろう。重症患者にトリアージを実施し、ケルマン市・マシュハド・バンダレ・アッバス、さらにテヘランの 高度医療施設へヘリコプタで空輸する、こうしたシステムは、これまでAMDAも広域防災訓練で参加した経験 を積んできた災害対策である。しかし移送を受け入れる病院の対処能力には限界があり、なかんずくケルマ ン州立病院のICU医師たちは不眠不休でケアしていたものの、満杯で対処し切れず、ICUに入れずに一般病棟 、果ては廊下や屋外で処置を受ける重症患者が溢れていた。診断器材は次々破損し、心電計などの計測器は 検査技師たちがICUのなかを借り回っているような状態であった。

一方、被災地の診療施設では救命に追われ、比較的軽症の患者−とはいえ頭部裂傷から骨折、新生児など病 院のケアなしには生活できない被災者−が病院へ通うこともできず、絶望感の充満するテントにうずくまっ ていた。崩壊した家屋の前では、ケガを治そうという気持ちも起きないのか、化膿するに任せている患者た ち。治療の手を差し伸べることはすなわち心のケアなのだと思い知る。

絶望感のうちに閉じこもる被災者に、1日でも早く、自分たちに関心を持ちつづける私たちがあること、希望 を届けること、それを感じ取ってもらうことが、治療への入り口だったと思う。

バムより

越谷誠和病院/AMDA登録医師  細村 幹夫

目がさめる。頭の中がどんよりとよどんでいる。厚いカーテンを透かし、わずかな明るさが部屋の中に感じ られる。その明るさを背景に、ひとつの大きな半円形状に膨らんだ塊。そこから5本の枝が真直ぐに広がりな がら黒いシルエットをつくって立ち上がる。その先端から細く長くふんわりとした、たくさんの葉がねじり あいながら、絡み合いながら床にまでしなだれている。ぼんやりとした頭の中で、「今日も何も考えずにバ ムへ行き、患者さんの診療をすればいい。早く起きろ」と言い聞かせる。が、すぐにその黒いものが、自分 の部屋のポニーテール(徳利蘭)の樹影であることに気がつく。 「そうかもうイランにはいないのか」。

日本を発ち現地バムに到着するまでに、すでに地震発生後5日が経過していた。私は、普段の仕事をたくさん の同僚にお願いし、必要そうなものをバッグに詰め込みでてきた。私達はできる限り早く日本を発った。し かし、バムは遠かった。イランも遠いが、バムはイランの首都テヘランより、さらに南東に約1000km離れて いる。日本から現地に到達するまでに、貴重な5日が過ぎてしまった。 

イラン国内のホテルのテレビからは、途切れることなくバムの様子が沈痛さをもって流されている。ほと んどの建物が、吹き飛ばされたように小さく低く埋もれている。広島や長崎の被爆地を思わせるような空撮 が広がる。違うことは、ナツメヤシが大きな幹を天に突き出し、てっぺんからは羽のようなスリット状の葉 が、四方八方に大きく広がり、その下に広い日陰をつくっていることである。しかし、もうすでに数万の人 たちが亡くなってしまったのか。

州都ケルマンはバムの北西約200kmの地にある。ケルマン医科大学の総合病院の外壁に張り出された白い紙。 バムの地震で亡くなった人達の名が記されているらしい。名前を探すように、しかし名前がないことを祈る ように見入る人たちの表情がかなしい。集中治療室には、たくさんの重症患者がねかされている。患者さん の息づかいをうかがい、体に触れその感触を確認し、聴診器をあてる。何枚ものX線写真、CT写真、採血デー タ、モニター画面を見る。たくさんの写真を、目を細め、見える範囲、可能な限りみる。多発骨折、頚椎損 傷、血気胸、肺挫傷...既に多臓器不全に陥ってしまった人たち…。集中治療室の医師と、患者さんにつ いて話し合いをする。
ケルマン州立病院ICUにて救命措置を行う筆者(右)
ケルマン州立病院ICUにて救命措置を行う筆者(右)
不安と疲労の色濃い表情の医師にできる限り助言する。しかし、人工呼吸器の機械的 な音は空しく集中治療室の中にひびく。「ここの患者さんはみな重症だ。だが、たくさんの医師や看護師が いる。」物思いのように集中治療室を出る。集中治療室の前の椅子に座る患者さんの家族。身内の回復を祈 り待つ姿はかなしい。

 バムの情報は非常に限られ混乱していた。しかし、バムにはまだ数万の生き残った人たちがいるはずだ。 まずケルマンよりミニバスで通い、巡回診療を行うこととなった。患者さんは来るのか、巡回診療は意味の あることなのかと疑念を抱きながらバムへ向う。岩石砂漠が延々とつづく。ハイウェイの横手に、屏風様に 急にそそり立つ岩山。やがてオアシスが地平線上に黒っぽい線となり、次第に厚みをます。茶褐色にぼやけ たナツメヤシのオアシスが見え始める。バムだ。既に倒壊した家屋、その前に張られたイラン赤新月社のテ ント。バスが市内に入る。ほぼ全ての建物が倒壊している。正確には、全壊している。全壊した家の前で、 その家の住人であったと思われる人たちがテントを張っている。かれらが失った家々、財産、そして家族を 思うと、倒壊したレンガの山はあまりにも痛々しく感じられる。

バスを降り、診療所らしきものを開く。緑の小さなテーブルに、折りたたみ椅子に、薬箱に、簡単な医療 用器具くらいしかない。見上げても屋根はなく、空は青い。診療所の場所の選定はあまり必要ではなかった。 すぐに多くの患者さんに囲まれる。軽症の外傷患者が多い。中度の外傷患者の多くは、初期の段階で縫合処 置等がされており、多くの医療従事者が行った初期の適切な治療をうかがわせる。あきらめとも思える薄笑 いを浮かべながら診療に来る人々の顔はかなしい。昼夜を問わず復旧作業をしたためか、ある男性の右前腕 は不恰好にぐにゃりと反り返っている。骨折しているようだ。地震発生から一週間以上たっても、まだ一度 も医療機関を受診していない人たちがいる。日本では聞かないことにしている質問をしてみる。「どうして 、病院に行かなかったのか?」と。「病院はたくさんの患者がいて、とても診てもらえる状況ではなかった 」、「動かなければ痛くなかったから」、「行くのは大変だ」、「わからない…」。全くばかな質問をして しまったと思い、以後その質問をすることはやめる。

一見澄んで見える町には、粉塵が蔓延している。そのため、呼吸器症状を訴える患者さんが多い。一瞬に して家も家族も失い、めまい・頭痛・だるさ・食欲不振・不眠等、不定愁訴的な症状を訴える患者さんが多 い。ひとつの小さなテントの中で不安が不安を呼ぶ。どこに行っても、たくさんの人たちが、たくさんの不 安を持ってやってくる。日常の医療サービスからとり残されてしまった人たちは、あまりに多すぎた。

巡回診療が半ばにさしかかる頃、かたわらでわれわれの活動を見ている男性に気がつく。調整員の佐伯さ んが話しかけ、バム在住の医師であることがわかると、すぐにリクルートをはじめる。身内を2人亡くし、 診療所も無くした医師であった。それでも、以後,彼は毎日私たちの活動に参加してくれた。現地のひとを 診るのは現地のひとが一番である。二人で相談しながら、彼の助言を受けながら、薬がなければ彼に処方箋 を書いてもらいながら診療を続ける。ありがとう。

日が経つにつれ、バムの町の道路を清掃する人が現れ、清掃車が走り始め、警察官の姿も目立ちはじめ、 一部の家の中庭には太い鉄骨が運び込まれ始めていた。全てを失ったかに思われた被災地は、すこしずつ復興をはじめ ていた。いまだ、たくさんの人たちが、きびしい状況の中に置かれていたが、町は動き出していた。この機 に、いったん今回の活動からひきあげる事となった。それでも、バスを止めテーブルを出せば、たくさんの 患者さんが、たくさんの不安を抱えてやってきた。ここでやめていいものかと思った。だが、彼らはすでに 自分たちで、バムの、自分たちの復興をはじめているではないか。そう思いながらバムを離れた。

帰路の飛行機より眼下に望むイラン南部は平坦な、茶褐色の砂漠地帯であり、少し突き出た山は、真っ白 な雪で覆われていた。飛行機のエンジン音が心地良くも、うるさくも感じられた。神にでもなったかのよう に眼下の小さな町を見つめる。バムの人達は何か悪いことをしたのだろうか?たくさんのイランの人たちが そうであったように、彼らも我々とかわらぬ普通の人たちだった。

あの地震でたくさんの人が亡くなった。たくさんの人が生き残った。そして、わずかな人間があの混乱の 中で生まれた。みな生きようとしていた。今も生きようとしている。

早朝に目が覚め、ぼんやりとした意識の中で「今日もバムに行け。自分の仕事だけに集中しろ」と思う 。ポニーテールのシルエットが、ナツメヤシを思い出させる。「ここは日本だよ」と思う。大きな災害であ った。それでも、みな生きようとしている。「そうだろ?」早朝のぼんやりとした意識の中で、そう思う。

AMDAインドネシア支部の緊急医療支援活動

12月26日、イラン南東部での地震発生直後、AMDAインドネシア支部長 Dr.Husni Tanraは福祉省大臣に電話で緊急救援隊の出動を要請した。その結果 、インドネシア軍、赤十字、AMDAインドネシア支部、Bulan Sabit(NGO)で60名の救援隊を編成し、30日22時 (日本時間)軍用機 Hercules でテヘランに向け出発した。AMDAインドネシア支部からは、下記医師が参加。

 Dr. Idrus Paturusi(整形外科医)

 Dr. Alamsyah (麻酔医)

 Dr. Nuralim(胸部外科)

インドネシア救援隊はテヘラン到着後、在イラン インドネシア大使  Ambassador Basri Hassanuddinに 出迎えを受け、現地での活動について打ち合わせた後、現地に入った。主にバム 及びバムから南西60km に 位置するジロフで医療活動とその他救援活動を実施、一ヶ月におよぶ救援活動を無事終了し、2月4日に帰国 した。




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