緊急救援活動

コンゴ火山被災民緊急救援活動

AMDA Journal 2002年 3月号より掲載

AMDAは、1月17日夜中、コンゴ民主共和国東部ルワンダ国境付近で発生したニラゴンゴ火山噴火における被災民に対して緊急救援活動を開始した。

以下はその活動報告である。

被災地域:コンゴ民主共和国東部ルワンダ国境付近
活動場所:ルワンダ共和国ギセニ地区カミラ避難民キャンプ
救援活動:医療支援(「臨床検査」と「栄養支援」)
派遣期間:1月23日から2月5日
(AMDAルワンダ支部は今後3ヶ月救援活動を継続する)
派遣者:日本、ケニア、ルワンダのAMDA多国籍医師団

現地被災状況(現地の活動レポートより)

1) ゴマ市の状況

街の中心部に24メートルの高さのマグマが流れたため、道路が遮断され交通が麻痺した。住居、食糧、衣服、薬、電気、水がなく、商店街、病院、役所、学校が破壊されていた。政府関係者の話によると、街の約8割が破壊され、 44校の学校が潰されたとのこと。

AMDAがゴマ入りした時点では、まだマグマから煙がたちこめ、ガソリンスタンドからの出火が続いており、空気が悪いのを感じた。

国連が中心になり、NGOと協調して、人々の生活を元に近い状態に戻すことができるよう努力していた。人々は長い列をなして、支援物資を待っていたが、まだ十分ではなかったようである。

人口40万人のうち、約20万人がコンゴのブカブ、ルワンダのギセニなどへ避難したと伝えられた。

2) 難民キャンプの状況

ルワンダにはカミラ、ムデンデ、ルヘンゲリの3つのキャンプがある。 AMDAは、その中のカミラ避難民キャンプで活動をした。カミラキャンプの人口は9700人。 15歳以下の子どもが2400人、うち5歳以下の子どもが332人いる。国連高等難民弁務官事務所(UNHCR)と地方行政省が共同管理し、その下に各種国連機関やNGOが救援活動をしている。 カミラキャンプは中継キャンプとして、98年から存在しており、旧ザイールの内戦で逃れてきたコンゴ難民のためのキャンプである。そこを今回の火山による被災難民のために使用している。

AMDAは、ギゼニ州の副知事を表敬し、カミラとムデンデの2つのキャンプで活動することを打診された。その後、カミラキャンプのクリニックから救援の要請があり、同キャンプで活動をすることに決めた。 AMDAはクリニックの要請に基づき、支援の行き届いていない臨床検査と栄養支援の2つの活動を実施することに決めた。栄養支援に関しては、日本チームによる子どもたちの栄養・健康状態調査で、ニーズが高いと判断し開始した。 被災民の一部はゴマに帰っているが、キャンプ内にとどまっている人もいる。その理由は、住む家も、仕事も、学校もないからである。また、再噴火の危険があるといわれているためである。


ニラコンゴ火山噴火被災民救援活動に参加して

AMDA登録看護婦 野村 由香

度重なる内戦で受けた傷がようやく癒され、平和が訪れようとしていたコンゴ民主共和国ゴマ市に突然襲いかかった自然災害。1月17日深夜ニラゴンゴ山は噴火し、大量の溶岩は街を一気に呑み込み、人々の生活全てをストップさせた。

集団感染を予防するための臨床検査
集団感染を予防するための臨床検査

日本のマスメディアはアフガン関連に集中していたせいか、この災害についての報道はわずかでしかなく、私も同様情報に乏しかった。『明日、アフリカへ行って欲しい』突然のAMDAからの要請に驚き動揺した。 と同時に改めてゴマ市で起きている事が、大惨事であることを知った。緊急救援なのだから突然依頼が来るのは当然である。私はすぐに家族と職場の了解を得て、最低限の荷物をバッグに詰め込んだ。 今まで果てしなく遠く感じていたアフリカの急接近と、与えられた任務への不安感、そしてとにかく行って出来る事をやってこようという使命感のようなものを抱え、飛行機に乗りこんだ。 日本からは私のほかに日本人の様に日本語を話す、日本在住ルワンダ出身のマリー・ルイーズさん、そしてケニアで待っていてくださる方は、以前ミャンマーで御一緒させていただいた横森夫妻という大変心強いスタッフが同行とのことで、私の緊張は極度に達することなく、空路を経過する事ができた。 機中ではルイーズさんより、彼女自身が受けた死と隣り合わせの戦争体験、ルワンダそしてゴマの悲惨な歴史をうかがい、なぜこんなにまでして人々が傷つき苦しめられなければならないのだろうかと、ぶつけようのない怒りが込み上げてきた。 『はやくなんとかしたい。でも何が出来るのだろう。どんな事が現場で起きているのだろうか…。』想像だけがぐるぐる頭を巡った。24日ナイロビに到着。ビザとエアチケットの手配を済ませ、活動場所となったギセニのカミラ難民キャンプに26日到着し、他のメンバーと合流した。 さっそく現地の情報を受け、その日は夜23時頃までAMDAの活動内容についてメンバー7名で検討を行った。何が必要なのか、何が足りているのか、そして何ができるのか。AMDAは日本から支援に来ている唯一の団体でもあったため、周囲からの期待も大きかった。 できることなら全ての人に対し手を差し伸べたい。メンバー全員がそう思っていた。しかし私達の力には限界がある。できないことを引き受ける訳にはいかない。出きる事を精一杯やろう!とメンバーの気持ちは一つになった。 そして私達は当初からキャンプ内既設のクリニックより要請のあった臨床検査と栄養補給支援の2つに活動内容を絞り、実施することとした。

診察、治療、薬剤の供与に関しては、地方政府が行っているクリニックと他援助団体へ一任することとなった。

医療チーム=治療と活動内容がイメージづけられやすいが、これは被災状況によって異なるものである。今回の災害では、死傷者は少なく外科的処置を要する被災者は、カミラキャンプにおいてはほとんどいなかった。

ルワンダ・ギセニ地区カミラ避難民キャンプ
ルワンダ・ギセニ地区カミラ避難民キャンプ

また、このキャンプは紛争難民の為のキャンプとして、UNHCRと政府の管理のもと98年より存在するものであったため、水道や排泄の設備は早期に対応ができており、そのためか感染症の蔓延は防げていたように思われた。 このような状況からメディカルサポートは二重、三重には必要なく、重要なのは病気を作らない環境にする『予防対策』であり、AMDAは栄養補給支援に焦点をあてた。

キャンプ内の子供達は元気に『ムズング(白人)ムズング!』と私達を呼んでは無邪気な笑顔を見せてくれた。しかしその子等の体型は異常にお腹が膨れ上がり、貧血の子供が目立つ。恐らく被災前から十分な食事は取れておらず、また寄生虫などの原因もあって慢性的な栄養失調であることは、容易に判断することができた。 配給される食事は豆、とうもろこしの粉、油のみである。夜は2、3人で1枚の毛布を奪い合いながら、空腹と寒さに耐え、時には眠れずに過ごす事もあるという。栄養不足と寒さ、そして精神的ストレスが更に体力の低下を加速させるだろう。 私達は121名の孤児を支援している団体に1ヶ月半分の栄養強化粉ミルクと1人に1枚割り当たるように毛布を提供した。これで少しでも子供達の体力低下を食い止めたい、子供達から笑顔を奪わないで欲しいとただただ祈るばかりであった。

また孤児達の収容されているテント内も衛生的とは言えず、便や尿で汚染されたゴザの上に、寄り沿うように夜を過ごし食事をする。空気もかなり淀んでいた。実際AMDA医師による診察と臨床検査により、赤痢患者が1人発見された。 このような生活環境では容易に集団感染は蔓延していくのである。それを防ぐべく、今後もAMDA医師による健康および環境管理に期待がかかる。

こうして私達はAMDAルワンダ支部に活動をハンドオーバーし、帰路についた。今回私は日本からAMDAを代表して、会員の皆様、そしてスタッフの皆様の真心を現地に届けるという大役を頂いた。できた事はほんのわずかかもしれないが、確実に必要とされているところに心と手が届いたのではないかと思う。 この度の活動に際し御協力頂いたAMDAスタッフの皆様、そして会員の皆様に心から感謝申し上げます。

私が見たものは確かに『悲惨』そのものの現場ではあったが、同時に人間の本当の『生きる力』を垣間見たように思う。 キャンプ内にはわずかでもお金を稼ごうと、ゴザを編む人、薪を割る人、ドーナツを揚げ売る人、また逃げる際にミシンの上の部分だけ持って逃げ、それで1日中手が擦り切れるまで手回しでミシン縫いをする母親の姿もあった。 そして親のお手伝いをする小さな子供達。子供ながらに、重い水タンクを運び、背中に赤ちゃんをおぶり、火の番もする。何もかも失ってしまった、でも生きていかなければという前向きな姿に何度も心を打たれた。 彼等はこれまでも『悲惨』の中で生き抜いてきた人々である。私には想像のつかない傷を背負いながら幾多も襲ってくる『悲惨』に背を向けず、なんとか生きようと頑張っているのだ。彼等には平和を取り戻す底力があるに違いないと信じて止まない。 1日も早く復興が進み、平和が訪れる事を強く願う。




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