緊急救援活動

春までにアフガニスタンへ帰りたい

AMDA主任調整員 谷合 正明
AMDA Journal 2002年 2月号より掲載

難民キャンプにて

難民キャンプに支援が足りていないとは思わなかった。2001年12月2日、ムハンマド・ケイルキャンプを訪問しての感想だ。そこには、10月の空爆開始以後、アフガニスタン北部マザーリ・シャリーフからクエッタに避難してきた難民50家族が暮らしていた。 彼らの話が本当であれば、約2ヶ月かけて、800キロ以上の道のりを経ている計算だ。私は、ある家族の長であるべロール(38歳)にお願いして、キャンプでの生活の様子を見せてもらった。1家族は4人から8人ぐらい。 土壁を利用して設置したテントの中には、毛布と暖炉用のストーブがあった。テントの前には、炊事用のコンロと水を汲むためのバケツとポリタンクが置いてある。キャンプには音がない。ラジオから流れる音楽もなければ、町の喧騒もない。 あるのは、炊事場からたちこめる煙だけである。生気がないのは、キャンプの特徴的な光景だ。べロールの家の周りには2家族が住んでいた。そのうちの1家族は、母親と幼児だけであった。父親はいない。 母親は老婆に見えたが、アフガン人女性は結婚後繰り返し出産をすることが多く、少女から一気に老けるというから、彼女も30代か40代なのであろう。彼女は病気であるとべロールは言った。 キャンプには、食糧や水、生活必需品は配給されていたが、仮設診療テントに働く医師がまだ見つかっていなかった。彼女に会釈したが、彼女はうめくように何かをつぶやくだけだ。躊躇したが彼女にお願いして1枚写真を撮らせてもらった。 それは何かを懇願しているようだった。(ジャーナル1月号裏表紙)

12月19日、UNHCRとUNICEFと合同でムハンマド・ケイルキャンプの再調査を行った。国連側も医療NGOが不足する状況の中、女性医療スタッフを持つAMDAに活動を要請してきた。この時、このキャンプには1万人弱の難民が暮らしていた。 救援物資は次から次へとトラックで運ばれていた。キャンプには、そこで商売を始める者も現れ、1つの町が形成されて行くかのようだった。私たちは、診療所の機能、難民受入れ・登録作業、難民の健康状態、キャンプの衛生状態などをチェックした。 結論としては、難民受入れ・登録作業の効率化と診療所へ女性医師を派遣することが急務ということだった。初期難民キャンプ形成時は、難民が全員医療サービスを受けられる体制作り、また感染症の予防が重要になってくる。

ショックだったこと

この時、もう一度べロールの家庭を訪問した。彼と再会できた喜びはひとしおである。べロールも私の顔を覚えていた。「アッサラーム、アライコム」。イスラム式の軽く抱き会う挨拶をすませた。彼はすこぶる元気そうだった。 が、あの母親が亡くなったことを告げられた。では、「あの幼児は?」たまらず聞くと、クエッタ市内の病院に移送されたという。身寄りの無くなったあの子は、これから先どこでどのように暮らして行くのか、アフガニスタンに戻れるのか、私の想像も悲観的になってくる。 この時、難民ができるだけ長生きして、最後は本人の望むところに帰ってもらいたい、そのために医療支援が必要だと思った。

休日返上で支援する

キャンプには、毎日難民が150家族、300家族と押し寄せた。AMDAチームとパキスタン州保健局のスタッフは、1家族ごとに保健登録、栄養状態の診断、予防接種を済ませて行くが、これは想像以上にタフな仕事であった。 名前を聞く、年齢を聞くという単純作業であるが、名前を何度も聞きなおしたり、年齢がはっきりしないこともある。栄養状態の診断では腕の周囲の長さを測定するのだが、腕を出す格好から注射を打たれるのではないかと誤解して泣きじゃくる子どももいた。 予防接種は、一番時間がかかる。嫌がる子どもを言い聞かせて、注射を打つ。ひっきりなしに難民が来るものだから、ほとんど朝から夕方まで休みなしである。加えてキャンプまで車で往復6時間の道のり。 キャンプ周辺のでこぼこ道を通るとそれだけでげんなりとしてくる。日暮れ時になっても難民が外で登録を待っているときは、時間との戦いでもあった。日没後の車での移動は非常に危険だからである。 スタッフの大半は女性であったため、夜遅く8〜9時の帰宅になると、スタッフの家族も心配した。連日このような活動が続いて大丈夫かと心配したが、スタッフにはそれ以上の意気込みがあった。 特に、ジャム エ シャーファ病院から参加している看護婦たちはすごく献身的に働いてくれた。彼女たちも、5、6年前にクエッタに避難してきた難民である。皆一様に、春になったらカブールに帰りたいと言っていたのが印象的だった。 パキスタン人男性スタッフも、タフな仕事だけど、すごいやりがいがあると語っていた。難民支援活動に参加できて大変嬉しいという。

難民は何も出来ない人たちではない

難民キャンプにも、ボランティアで働く難民がでてきた。べロールもその一人だ。12月26日みたび会ったとき、彼はムハンマド・ケイルキャンプに避難してくる難民の誘導作業を担うスタッフとなって無給で働いていた。 ボランティアで働く難民たち。その顔はどこか誇らしげである。ボランティア以外にも、キャンプで、肉を売る者、雑貨を売る者が現れ始め、キャンプに活気が出てきた。また医師としてAMDAに参加したいと言ってくる難民もいた。

難民支援は、何も出来ない、恵まれない、可哀想な人たちだけを支援することではないと思う。それは一面的であると思う。彼らは何か出来る人であり、その彼らが復興に向けて取り組むのを支援するのが私たちの役目ではないかと思った。 復興のためには彼ら自身が必要とされているのだ。難民が精神的につらいのは、誰からも関心をもたれていない、必要とされていない、そして、忘れられていくことの3つだ、とAMDAは訴えている。 私自身、これまでなぜ難民を必要とするのかを実感することがなかった。しかし、今回、キャンプで働く嬉々とした難民の姿をみて、はじめて彼ら無しでは、私たちの支援活動は成り立たないことがわかった。 これは援助する側とされる側が向き合っている関係というよりも、同じ方向を向いている関係に近いかもしれない。私は彼らにチャンスを与える支援活動が必要だと感じた。

春にはアフガニスタンに帰りたい

政情が安定すれば、そして仕事があれば母国に戻りたいという難民は多い。そんな難民にとって今一番大切なものは、医療、教育、仕事の3つがそろっているかどうかだ。よく、難民はタリバンとか北部同盟についてどう思っているのかと質問を受ける。 しかし、私が接してきた難民のほとんどは、今日の生活と明日がどうなるのかということで精一杯というのが印象である。ボランティアで働き始める難民も現れてきているが、テントの中にはうずくまって寒さをしのぐ女性がまだ多く見られる。 私自身、帰還への希望は楽観的であるが、現状の認識は悲観的である。冬を迎え、アフガニスタンに戻れるかどうかのこの時期が、AMDAの人道支援の一番重要な時期ではないかと私は思う。




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