緊急救援活動

パキスタンレポート
ソフラブ・ゴス アフガン難民キャンプでの診療活動


AMDA主任調整員 谷合 正明
AMDA Journal 2001年12月号より掲載

 この度は、パキスタンにおけるアフガニスタン難民緊急救援活動におきまして、会員のみなさまから多大なるご支援、ご寄付をいただき、パキスタンに派遣された者として、厚く御礼を申し上げます。

 私は、10月11日から10月25日の間、第1次緊急救援チームの主任調整員とし て、パキスタンのカラチ市、クエッタ市に行ってまいりました。その時の活動を報告いたします。

事態は急展開した

 10月7日(土)の深夜、正確には8日(月)の午前1:00すぎ、本部にひっきりなしに電話がかかった。アメリカによるアフガニスタンのタリバンに対する報復攻撃が始まったのだ。電話はすべてマスコミからの取材であった。AMDAは緊急救援チームを派遣するのか。いつパキスタンに出発するのか。今回の空爆についてどう思うか、等々。深夜にもかかわらず取材の電話が鳴り止まなかったのは、今回の空爆がもたらす意味の大きさを物語っていた。本部でも、飛行機はパキスタンまで飛ぶのか。ビザはすぐにおりるのか。もしこのまま空爆が続けば、飛行機もパキスタンに飛ばないのではないか。その場合、AMDAは救援活動ができるのか、等々、不安が入り混じった。

 実は、空爆の始まる数時間前、AMDA本部では、私を含め5人の第1次隊メンバーのパキスタン派遣を決定していた。この時すでに、パキスタンのアフガニスタン難民の窮状が伝えられていたからだ。しかし、空爆が始まって、より危険度の高まった地域で、どれだけの診療活動ができるのか、未知の部分が大きかった。ただ今回のチームは、若山医師はアフガンでの難民支援の経験があり、 上田医師もアルバニアでの難民支援の経験があり、寺尾看護婦、鈴木看護婦は、インドのマザーハウスでの経験があったことで、不安はそれほどなかっ た。事実、皆がそれぞれ自分の長所を出し合い、また意見を言い合い、まとまりのあるチームとして行動できたと思う。

 翌朝パキスタン行きの飛行機が突然キャンセルされ私たちのパキスタン行きも危ぶまれたが、ようやく11日成田発のフライトを押さえ、中東のドバイ経由でカラチに向かうことができた。空港に乗り継ぎで到着するたびに、本部に電話をかけ、次のフライトは無事に次の目的地へ飛ぶようだといった情報を流した。道中、カラチまでなんとか飛んでくれと祈るような気持ちであった。

デモとストライキのはざまで


 12日昼前、パキスタン南部の港湾都市カラチに無事到着し、AMDAパキスタンのメンバーに迎えられた。その日は、イスラムの休日にあたる金曜日で、午後のお祈りの時間のあと、大規模なデモが予定されている報告を受けていた。市内は、閑散としていた。商店のシャッターも下ろされている。とにかく、私たちはデモが始まる前に急いで宿舎に直行した。その日以後、私たちは安全を最優先にして行動することになった。空爆以後、パキスタンでは、デモやストライキが頻発した。未遂に終わったデモもたくさんある。パキスタン人全員が参加しているわけではないが、空爆にもろ手を挙げて賛成できるわけがない。クエッタなどでは国際機関やNGOの事務所がデモ隊の襲撃を受けるなどの事件があり、治安が急速に悪化していた。もっとも、デモやストライキがある日以外は、カラチやクエッタの街は普段どおりの活気のある都市であった。しかしながら、私たちは反米デモやストライキの影響、実際の難民キャンプで外国人が診療行為にあたることの(日本で予想していた以上の)危険性があることから、カラチ滞在を余儀なくされた。

 新聞やテレビで難民が次から次へと押し寄せる情報を得ながら、いたずらに時間がすぎるのが、なんとももどかしい思いもしたが、日本の医療チームが必要とされる機会が訪れることをひたすら待った。この間、カラチ市内の病院や地域開発プロジェクトを視察するなどし、現地パキスタン医師と難民キャンプでの診療活動の可能性について協議を重ね、事前準備に時間を割いた。

アフガン難民キャンプでの診療活動


 10月20日(土)AMDAは、日本人チーム5人とパキスタン人チーム17人の多国籍医師団を結成し、2人のパキスタン人随行員とともに、カラチ市内ソフラブ・ゴスキャンプでの診療活動を始めた。テント15張はあろうかという仮設診療所を舞台に、250人のアフガン難民の診察にフル回転であたることになった。その日は、日中35度にもなる蒸し暑い日だった。

仮設診療所内での問診

 ソフラブ・ゴスアフガン難民キャンプは、1982年頃旧ソ連のアフガニスタン侵攻を受けてできたキャンプだ。キャンプの人口は、その区画が明確でないためか、同行のパキスタン人に聞いても様々な答えが返ってきた。ただ、私の目から1万人から3万人規模と推定された。カラチ市内から北西に20キロメートルほど離れたこの場所は、乾燥地帯に忽然と現れる巨大な都市スラムという感じで、明らかに概観はパキスタン人の居住区とは違っていた。

 今回のテロ事件以後、このキャンプに新たにアフガニスタンから流入した難民には出会わなかった。アフガン難民のほとんどは、国境を越えられず、アフガニスタン内部に留まらざるを得ないからだ。国境から何百kmも離れたカラチにはまだ難民の流入は見られないが、この場所にもテロ以後に難民となったアフガニスタン人が入ってくるのは、時間の問題かもしれない。もちろんAMDAは流入時期によって難民を差別するようなことはない。

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