緊急救援活動

「コミュニケーション」
第2次チーム AMDAインターナショナル 藤田真紀子
AMDA Journal 2001年 4月号より掲載

 土ぼこりが舞う通りには人、牛、山羊がのんびりと時を過ごしていた。ここでは、人と動物とがお互いに干渉しあわず、共存している、という感じがした。 救援機が降り立ったアーメダバードから西南に位置するモルビーという町に、私たちはトラックで7時間かけて移動した。町の市場や通りでは意外にも、物が不足しているという感じはなかった。 しかし、ふと目をやると建物が崩れていたり、橋の両端が崩れてなくなっていたりして、さすがにその橋を渡るときには途中で橋が割れて落ちてしまうのでは、と不安に思ったが、住民たちは皆そんなことは気にしていない様子だった。

 モルビーから更に車で1時間の所にあるラムナガールという村では、事態は全く違っていた。辺りにはかつての形を残している建物はなかった。トラックを降りると、村人が集まってきた。 カメラを持ってあたりを見回す私に、「写真をとるなら、僕がこの村を案内してあげるよ。」と、少年たちが案内をしてくれた。 30分ほど歩けば一周できるくらいの小さな村だったが、その家々はほぼ全壊、村人たちはシーツやブランケットを木の棒にかけただけのテントで生活をしているようだった。 インドの気候は、昼間は暑いが夜になると信じられないくらい冷え込み、壁もない家では寒すぎて眠られないだろうと思った。思いのほか作業が進まず、救援物資を配布する時には既に日が暮れていた。 街灯代わりの電球の明かりの中で、私たちが運んだ、一人一人の善意が詰まった毛布が、少しでも彼らの体と心を暖めてくれれば、と思いながら毛布を手渡した。 笑顔で握手を求めてくる人や、なかなか立ち去ろうとしない老人。村人たちの表情は明るく、言葉は交わさなかったが、その笑顔にほっとした。

救援物資を配布するAMDA多国籍医師団第2次チーム

 トラックは土ぼこりの中をガタガタと音を立てながら走っていく。そこに現れたのはブルーシートで作られたテントが並ぶ、避難所だった。 この村でもやはり村全体がほぼ全壊、村人たちは余震からくる二次災害を恐れ、広い空き地にテントを並べていた。村人たちは地元のNGOと今後の復興について真剣なまなざしで話し合いをしていた。 ふと見ると、避難所の脇に点々とした白いものが見えた。都市で育った私は、綿花を見るのは初めてだった。珍しくて、近寄ろうとすると、村の子供たちが一緒に来てくれた。 「綿花だ、ふわふわしてるー。」感動している私を見て、今度は子供たちが「こっちにも来て!」と、さらに奥へ連れて行ってくれた。そこには小麦畑があった。 「これを擂って、粉にして、チャパティを作るのよ。」と教えてくれた。今度は、手にいっぱい何かを持ってやってきた。さくらんぼ大の、何かの実のようだ。 「食べてみて、おいしいの。」口にしてみると、りんごを少し渋くしたような味で、意外においしかった。 「日本から来たのね、名前はなんていうの?」私はヒンズー語を全く話すことはできなかったが、不思議と、なんとなく彼女たちが言っていることが分かった。 彼女たちの表情もまた明るく、雲一つない青空によく似合う笑顔だった。

 大規模な地震災害が起こったインドでは、未だ多くの人々が厳しい生活を強いられている。海外からの大規模な支援物資は一定の場所に集まってしまい、特に郊外の村ではそういった物資が配布されることはほとんどない。 現に、私たちが行った村でも海外からの物資を受け取ったのは初めてだったという。しかも、今回の地震災害による被害だけでなく、インドには貧困という問題がこの国の根底にあるように思えた。 町へ行っても、車が行き交う大通りの脇には、布を壁代わりに掛けただけの家に住む貧しい人々が暮らしている。人々は未だに廃止されたはずのカースト制度に縛られ、自由を奪われているのだ。 途上国の貧困を無くすためには物を提供するだけではなく、その根底にあるものを改善しなくてはならない。でも、一体何を、どうやって? この答えが見つかり、それを実行に移すことが出来た時、私たちの活動は終結を迎えるのかもしれない。




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