緊急救援活動

インド グジャラート州大地震における AMDA多国籍医師団の活動について

第1次チーム医師 三宅 和久
AMDA Journal 2001年 4月号より掲載

 グジャラート州はインド西北部にあり、パキスタンとの国境に位置する。2001年1月26日(金)午前8:46、ブジ市の北を震源とするM7.9の地震が起こった。

 その日の内に、AMDAは緊急医療チームの派遣を決定。私は夜行列車で岡山を出発し、翌日の朝、降りしきる雪の中をインド大使館へ向かったが、この時はまだビザの発給が受けられず、一旦は岡山に引き返しかけたが、移動中に発給される旨伝えられた為、岡山に着いて二時間後に再び夜行列車に乗り、東京へ向かう羽目となる。翌1月28日(日)成田発、29日(月)0時半ボンベイ着。AMDAインドのチャウハン宅にて睡眠を取った後、同日朝、ネパールから来たチーム、インドのマニパルから来たチームと合流し、私とチャウハンを含めたAMDA多国籍医師団10人で空港へ向かった。何とか10人分のチケットを買えたものの、オーバーブッキングで5人しか乗れない。仕方なく、鈴木調整員と私を含めた5人のみが先発し、残り5人は翌日朝一番の便でブジ市へ向かうこととなった。   

 29日14:30、ブジ空港着。しかし、ここは軍用空港でターミナルなどは無く、荷物を待つこと1時間半、ようやくブジ市内へ入れたのは夕方になってからだった。完全に破壊されて瓦礫の山と化した総合病院跡に荷物を置き、整形外科のバスデブは他のチームの場所と道具を借りて4人の患者を治療。他のメンバーはブジ市内の状況を見て回った。ここブジ市は地震後3日の時点で電気は無く、店は全く開いておらず、水も給水車により行われている状態で、荷物の制限の為ペットボトルすら持っていなかった我々は、砂漠気候の乾燥したこの地で、ほぼ6時間にわたって水を飲む事ができず、渇きに苦しめられた。(私は他のインドのメンバーが止めるのも聞かず、地元の人が飲んでいる水を同じように飲んだのだが、私以外は誰も飲もうとしなかった。少し変な味の水だったが、結局何事も無かった。あるインド人医師から私の前世はインド人だったのだと言われたことがあるが…。)全てのメンバーが水と食料の供給を受けられたのは20:30になってからである。その夜は余震を避ける為、吹きさらしの広場で星を見ながら寝たが、昼間の25度から一転5度くらいに冷え込んだ中でインドの薄い毛布は防寒効果が薄く、寒さでほとんど眠れない中朝を迎えた。

 1月30日(火)9:15、後発の5人と合流。ボランティアの車でブジ市の東45キロにあるアンジャール市へ向かう。12:10アンジャール市着。野外病院として張られたテントの一角にAMDAも診療所を開設し、早速治療を開始した。

 この日は地震発生後4日目になるが、大抵の緊急救援では、日数が経つほど患者は外科系から内科、小児科、心療内科系へと移って来るものである。しかし、今回はこの日を含めて5日間、ほぼ全て外科と整形外科の患者であった。止血のみで初期治療が受けられず、我々の診療所で初めてきちんとした治療を受ける患者ばかりだった。インドの医療チームも相当数入っていたのだが、患者の数が多すぎる為、初期段階では治療の手が届かなかった人たちがかなりいたと考えられる。なお、この野外病院では外国からの医療チームは我々以外見かけなかった。外傷患者の多くは、前頭部から頭頂部にかけて挫創を受けており、地震発生時、瓦礫の頭部への落下によると推察された。中には頭蓋骨が剥き出しになっている患者もあり、デブリッドメント(一旦傷の周囲を切り取って、傷を新鮮な状態にした後、縫うやり方。この方が傷の癒合が早い。)を中心に、我々はひたすら外科処置を続けた。この日は31人を治療。陸軍が張ったテントで寝ることができたが、やはり寒く、熟睡は難しかった。

 ここでは電気は発電機によるもののみだったが、食料と飲み水は十分に供給されていた。ただ、問題はトイレだった。簡易トイレすら無い。女性は小便すらできないのである。男性も大便の時は夜中に起き出して、その辺の空き地でするのであるが、朝になると診療用のテントの横ですら小便と大便の跡が至る所に残っており、蠅が寄って来て不潔になるので困った。また、もともと埃っぽい上に、瓦礫により更に埃が増しており、外科処置の際傷口が不潔になるのが心配だった。飲み水はあるものの、生活用水はほとんど無いので、顔を洗うのは手の平1杯の水だけにした。歯を磨く水は手の平2杯分である。埃で日に日にゴワゴワに固まっていく頭髪を撫でながら、髪を洗いたいわあ、と若山由紀子医師が言った。

 実際ここで一番大変だったのは、女性である若山医師だったと思う。現地の女性は二人一組で用を足しに出かけるのであるが、外国人である若山医師はそうはいかない。二日目の夕方にようやく簡易トイレができたものの、やはり昼間は外から見えてしまい、しかもしゃがむと後ろの穴へ転がり落ちそうになるお粗末かつ危険な(?)代物で、若山医師の見えざる苦難、いや、見えては困る苦難は最後まで続くのであった。

 結局第1次チームは1月29日から2月2日まで計236人を治療し、診療所と医薬品をあるインドの医療チームに引き継いで撤収した。私はAMDA本部からの指示で2月1日(木)アンジャール市から東へ300キロ離れたアメダバード市へバスで移動。2日夕刻日本から輸送機で来た第2次チーム5人と合流し、更に1週間救援活動を続けた。

 最後に、特にハードだった今回の緊急救援におけるAMDA多国籍医師団のなかでもとりわけ苦労を強いられたのは、役所に翻弄され続けた第2次チームの小平調整員、疲れてブーイングが出始めたメンバーを何とかまとめてボンベイに連れ帰った鈴木調整員、そして心身共に疲れながらも不平を言わず最後までがんばった若山医師だろうと思う。彼女を見て、ボランティアの原点とトイレの重要性を再認識できたのは、今回の大きな成果だったと言ってよいだろう。いや、本当に冗談抜きで、水、食料そしてトイレの供給は常にセットで考えるべきなのである。人間は食べて飲んで出してこそ健康でいられるのだから。




緊急救援活動

アメリカ

アンゴラ

イラク

インドネシア

ウガンダ

カンボジア

グアテマラ

ケニア

コソボ

ザンビア

ジブチ

スーダン

スリランカ

ネパール

パキスタン

バングラデシュ

フイリピン

ベトナム

ペルー

ボリビア

ホンジュラス

ミャンマー

ルワンダ

ASMP 特集

防災訓練

スタディツアー

国際協力ひろば