緊急救援活動

天 災 の 影 に
─インド・グジャラート州地震災害緊急医療救援活動─


AMMM第1次チーム 調整員 鈴木 俊介
AMDA Journal 2001年 4月号より掲載

 1月26日、独立以来52回目の「共和国デー(Republic Day)」を迎えた午前8時46分、インド西部グジャラート州(Gujarat State)、カチ地区(Kutch Region)・ブジ郡(Bhuj District)を震源地としたマグニチュード7.9(6.9という説もある)の大地震は、10万人近い死者(その数は今尚定かではない)を出し、インドの産業地帯を半ば壊滅状態に追いやった。グジャラートにおける一人当たりの国民総生産は、インド全体のそれを約50%ほど凌いでおり、古くからの繊維産業に加え、最近ではその他の様々な産業も興り、インド国内外からの投資が盛んな地域と伝えられている。人口9億を抱えた大国と言えども、こうした産業地帯の破壊は、国家経済全体にとって大きなダメージであろうと考えられる。

 そもそも日本を世界有数の地震国とならしめている原因は、環太平洋プレートにある。そして今回の地震は、アルプスからヒマラヤを通りミャンマーへ抜けるプレートの一部であるインド亜大陸プレートの移動によるものである。なぜヒマラヤ山脈が世界の屋根と呼ばれるほど高くそびえているのか、その答えがインド亜大陸プレートである。毎年少しずつ、そのプレートはインド大陸を北側へ押し上げているのである。そして不幸にも、カチ地区は、その断層線のほぼ真上に位置しており、インド気象局の話によると今回の大地震は、1819年に同地区を襲ったマグニチュード8.0の地震以来、やや小規模の地震を何度か経て、その再発は確実視されていたと言うのである。これはまさに関東大震災の再発が予測されている状況と同じである。

崩壊したアンジャール市場周辺

 数万人の人々が崩れた建物の下で息絶えた。被害が大きかったのは、高層の比較的新しいビルであった、とグジャラート州第一の商業都市アーメダバード(Ahmedabad)では伝えられた。また実際に足を運んだブジやアンジャール(Anjar)では、市場、病院、そして警察署や庁舎等、政府の関連施設に被害が多く見られた。本来遵守されるべき建築基準や許可制度は、汚職によって反故にされたのではないかと、メディアはここぞとばかりに建設・土木行政を批判した。しかしメディアが批判する前に、地元の人々は「気づいていた」もしくは「知っていた」と、少なくともそれが現地で聞かれた声であった。これらのことは、今回の地震が「天災」でありながら、実は「人災」であったことを物語っている。

 ブジでは250床の市民病院の2階部分がすべて崩れ、200名近い入院患者とその家族、そして医師や看護婦などの職員が死亡した、と伝え聞いた。不幸中の幸いではないが、祝日・休院であったために、地震の発生時刻、病院にいた人々は普段の数分の一であったらしい。多くの医療従事者は非番であった。反対にアンジャールでは、20の学校が参加した共和国デーの記念式典の最中に、会場となった市場の建物が崩壊し、400名の生徒と50名の教職員が、僅か数秒の間に生死のラインを超えてしまった。しかしこうした悲劇をすべて「人災」と決めつけてしまうにはあまりに酷な大地震であった。

 被災4日目、我々が現地入りした日、すでにインド地方紙は、被災による死亡者は2万人に及ぶのではないかと報じていた。2月に入ると瓦礫の除去作業も本格的に開始され、崩れた家屋の下から死体が次々に発見されたようである。人々の噂や裏話を知る関係筋によると、その時グジュラート全域における死亡者数は10万に達するかのようであった。被災地域は広大であった。震源地に最も近いブジからアメダバードまでは直線距離で250キロ(道のりで360キロ)にも及ぶ。大阪─広島間とほぼ同じ距離である。阪神淡路大震災の際に岡山、広島、鳥取、松江さらには岐阜、そして名古屋といった震源地からかなり離れた都市においても相当な被害がでていたとしたら…それを考えると今回の地震のインパクトを理解できるかも知れない。

 こうした中、AMDAの緊急救援医療チームは28日夜、インドから6名、ネパールから3名、そして日本から1名、合計10名の派遣者がボンベイで合流し、翌日被災地であるブジに入った。そして30日からアンジャールで診療を開始した。

 AMDAの医療チームがブジ到着後、アンジャールに入った理由はいくつか挙げられる。

1. ボンベイからは陸路、もしくは空路の選択肢があったが、陸路は車道が長蛇の列による交通渋滞をきたしており、また鉄道も予約が困難な状況にあった。共にいつ目的地に到着できるか分からない状況であった。その点、空路はインド航空がブジまで直接乗り入れており、一番短時間で被災地入りが可能であると判断した。ボンベイからは、同じグジュラート州内の他の都市、ジャムナガールやアメダバードへも飛んでいたが、カチ地区の被害が桁外れに大きいという情報を基に、乗入れ地としてブジを選択した。

2. 我々が被災地入りした1月29日、ブジの郡庁舎に緊急対策本部が設置されていたが、そこで医療担当者から「ブジでは必要ないが、アンジャールではまだ足りないようだ」と助言を受けた。震源地に一番近く、またマスコミの報道が集中していたブジには、すでに多くの医療従事者がインド国内から駆けつけており、我々の「手」が必要とされる状況は薄いと判断した。

3. アンジャールはブジから車で1時間(45キロ)のところに位置しているため、仮に大きな余震が発生し、道路が遮断されたような場合でも徒歩で戻れる距離であると判断した。

4. 災害発生当初、カチ地区はロジスティクス面で半ば孤立しており、車の数、燃料の補給も限られていた。また武装した盗賊団も至る所に現れ、金品を運び出しているという噂も耳にした。また半壊した建物、もしくは外見上ほぼ完全な形で残っていたとしても、余震でいつ崩れるか分からない状況にあった。このように、正確な現地の状態が把握できない状況下、「片道切符」だけを手に入れ被災地の奥へ入っていくことは避けるべきであると判断した。

5. 緊急医療救援の役割は、できるだけ早く被災地に入り、現場で施し得る医療を最も必要とする患者に対して、そのサービスを提供することである。そしてその数は多ければ多いほど良い。正確な情報が手に入り難いとはいえ、活動場所の決定に必要以上の時間を費やすべきではない、という考慮も当然のことながら働いた。


 ところで、被災地入りするにあたり必ずしもことが順調に運んだ訳ではない。インド航空の子会社であるアライアンス航空は、ボンベイ─ブジ間を一日2便飛ばしているが、29日はすでに満席だと伝えられた。小型の飛行機であるうえに、親族の安否を気遣う人々、あるいはインド各地からの医療関係者の予約で一杯であった。しかしインドのフライト予約状況は、「キャンセルはチェックイン時間になっても許される」という話を聞いていたので希望は捨てなかった。離陸直前の交渉の末、その日は5席確保し、翌日分としてさらに5席確保することに成功した。また、ブジからアンジャール入りするにあたっては、ブジの緊急対策本部の医療班から、10人が座れる大型の救急車を借りることができた。

 こうしたロジスティクスの調整は、本当に神頼みである。昨年同時期、私はベネズエラ大洪水の緊急救援に合計5人の医療チームの調整員として参加したが、その際は運良く軍のヘリに便乗することができた。今回は、医療チームの人数が倍の10人と多い上に、公共輸送手段に頼らざるを得ない状況下、航空会社担当者との粘り強い交渉が、チームを被災へ運ぶ鍵となった。

医療キャンプ内のAMDA仮設診療所

 アンジャールの医療キャンプは、カラフルな布を使用した巨大なテントが張り出されており、我々の到着時、すでに3〜4の医療チームがそのテントの周辺部分に診療所を設置し医療サービスを提供していた。テントの総面積はおそらく2,500平方メートル以上はあり、500人の患者のみならず、その家族もすべて収容できていたと思われる。地面にはシートや毛布を敷き、思い思いの避難生活・看病生活を営んでいた。ある意味で巨大な簡易(野戦)病院の様相であったが、本来数組のカップルが結婚式を挙げるために準備されていたテントだったそうである。我々AMDAの医療チームもその一角に診療所を設け、アンジャール到着後2時間後には最初の患者を迎え入れることができた。そしてその時から目の回るような忙しい4日が始まった。

 AMDAの診療所は簡易小手術室となった。今回の緊急医療救援の特徴は外科処置を必要とする患者が多かったことである。ギブス固定、縫合、指の切断など、本格的な外科活動が中心となった。日本から運ばれた小手術用外科キットが大いに役立った。地元インド支部・マニパールの大学病院から派遣されたアティク医師は整形外科の専門家で、大きな体を休ませる暇も惜しんで患者の処置に汗を流した。同じ病院から派遣された他の医師及び看護士も各々の技術と役割を理解し、適材適所、精を出して活躍してくれた。また、日本から駆けつけた三宅医師は、緊急救援のベテラン、百戦錬磨の強者であり頼りになる。ネパールから派遣された若山医師、ニロウラ医師の2名も、野戦病院の風貌を持つダマックのAMDA病院でこうした外科処置を日々こなしており、コンビを組んで活躍してくれた。合計236人を受診した。患者の診療内容は表に記す。(P6参照)

 ところで、活動場所のテント内は、強い風が吹き込む度に砂が舞うような非衛生的な場所であったが、余震警報が消えない状況の中、建物の中に入ることはできなかった。また、仮設テントであったために、トイレなどの設備もなく、患者とその家族は寒空の下で夜間人目を忍びながら用を足さなければならない厳しい環境であった。困ったことに我々の仮設診療所の裏手がその「格好」の場所であったため、毎朝放し飼いの豚が掃除をしてくれるまで若干不快な思いをしなければならなかった。さらに、カチ地区一帯は乾燥地帯に属し、昼間は25度まで気温が上昇するものの、明方近くになると5度以下に冷えるため、寒暖の大きな差が、毛布1枚の我々から睡眠を通じた体力回復の機会を奪っていった。何度も目が覚め、そして何度も寝返りを打ち、ガタガタ震える体に毛布を巻きつけた。

 話を前に戻すが、アンジャールにおいては初日を除き毎日60名以上の患者が我々の診療所を訪れたが、患者の多くが肉親を失っていた。小さな子どもが両親を失い、あるいは母親が夫と子どもを失っているといった状況であった。治療行為のアシストに忙しく、患者とふれあう時間を持つことはほとんどできなかったが、中には患者を連れてくる付き添いの人達が、患者の家族や親族の悲劇について語ってくれた。被災者の方達は皆気丈であると感じた。12歳の男の子が何気なく私の名を呼び話をしたがる。最初は、彼の相手をしていたら仕事ができないと、適当に対応していたが、後に彼が姉一人を残し、両親を含むすべての家族を失ったことを知った。彼に限らず多くの患者とその家族が「アムダ、スズキ」と声を掛けてきた。ご存知のように「スズキ」は、インドでお馴染みの車輌製造メーカーである。テレビコマーシャルと同様、「スズキ、サムライ、ノープロブレム」が、診療所に来る彼らの合言葉だった。彼(女)らの多くが、AMDAチームの献身的なサービスを聞きつけ我々の診療所を訪れた。

 「AMDAの旗」をたたみ、診療所を撤退する際、まさに後ろ髪を引かれる思いがした。手当てを受けた患者の中には、我々が去っていくことを知り、わざわざ御礼の言葉をかけに戻ってきてくれた人達もいた。我々の存在が不可欠であればそのまま留まるという選択をしたが、被災後一週間も経過すると、インド各地、あるいは海外から駆けつけた様々な医療団体が、自らの仕事場を探していたのである。多くの場合、彼らはインドの医科大学付属病院や各国政府が送り出した医療チームである。又その頃になると、ギブス固定や縫合を必要とする患者数は減り、後はいわゆる「ドレッシング(傷口の消毒)」と、消化器系及び呼吸器系疾患に対する手当てが必要であり、それらについては後続のチームにお任せすべく手はずが整った。逆に大きな手術が必要な患者は、次々とエアリフト(空輸)され、ボンベイやジャムナガルなどの大病院へ搬送されていた。2月2日午後7時半、AMDAは、診療所とそこにあるすべての医薬品や医療消耗品を、ヴィジャナガル医科大の助教授が率いる30名の医療チームに引渡すと同時に、フォローアップが必要な患者に関するブリーフィングも終了し、アンジャールにおける医療救援活動を終えた。

段ボール数箱にも及ぶ医薬品を整理するカマス医師とゴクルダス看護士


 今回の活動を振り返ると、期間は短かったが、診療活動の中身は濃く、我々AMDAチームが全体として現地の医療ニーズに応えることができたと感じている。又2月1日の段階で、人口8万人にも満たないアンジャールの町に約200名の医療従事者がインド各地から駆けつけていた。その中に30名近い整形外科医がいたと聞く。ネパールの派遣医師曰く、「僕の国には全体でみても20名を超える整形外科医はいない」と。そして(分類作業に多くの時間を割いたが)溢れんばかりの寄贈医薬品、千人を超える避難家族や我々のような支援団体のメンバーに毎日食事を提供すべく炊き出しに係わる市民団体、被災状況や救援活動状況を詳細に伝えるメディア等、どれもインドが大国であり、かつ医療先進国であることを物語っている。被災地のできるだけ早い復興と、被災者の方々が一日も早く心身の健康を取り戻されることを心より祈念する。




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