ジブチ

アフリカへ毛布をおくる運動       
AMDA本部 新井 理映子
AMDA Journal 2005年 7月号より掲載

1984年のアフリカ大旱魃は、未曾有の被害をもたらした。エチオピアだけで も100万人を超える死者が出たとの報告もある。この危機状況に、当時のUNI CEFグラント事務局長が全世界に対して救援物資「毛布」の緊急アピールを 行い、それを受けた日本政府は、100万枚の毛布援助を行うことを表明し、 官民合同の「アフリカへ毛布をおくる運動」プロジェクトが発足した。初年 度は、森繁久彌氏を会長とした「アフリカへ毛布をおくる会」が発足し、17 1万枚もの毛布をアフリカ8ヶ国へ送り、翌年解散した。
 その継続プロジェクト「アフリカへ毛布をおくる運動」は以来20年間を経 て、2004年までに24ヶ国へ337万枚の毛布を送ってきた。
 この運動の推進委員会は、アフリカ協会、立正佼成会、 JHP・学校をつく る会、日本国際ボランティアセンター(JVC)とAMDAを構成団体とし、外務 省、国連広報センター(UNIC)、WFP日本事務所、UNHCR駐日地域事務所から のご後援をいただき、また実際の輸送業務を行っていただく日本通運株式会 社を協力団体として運営されている。
 日本から送られる毛布は品質もよく、現地では非常に喜ばれている。高地 では日中40℃もの気温が、朝晩は3℃にも下がるなど寒暖の差が激しく、1枚 の毛布が日除けにも防寒にも役に立つ。雨が降れば傘にも、乳児のお包みに も、床の敷物にも早変わりする。その用途は多岐にわたり、人々は送られた 毛布を大切に長く使っている。
 AMDAは1994年から構成団体のひとつとしてこの運動に参加し、実際にジブ チにおける配布にも携わっている。運輸サービス以外の産業に乏しいこの国 は輸入に依存しているため物価が高く、日々の生活に困窮する人々が毛布を 購入することはとてもむずかしい現状にある。2004年度までに延べ108,000 枚の毛布をソマリア・エチオピア難民やジブチ市内の病院や孤児院に配布し てきた。また我々は、できるだけ女性に手渡すようにも心がけている。これ は、残念なことだが男性に渡すとそのまま売ってしまったり、ひとり占めし てしまったりすることも少なくないからである。近年は、北部山岳地帯の貧 困地域へ出向き配布を行っている。
 これまでのみなさまのご理解とご好意そして関係諸団体のご尽力に心から の感謝を申し上げるとともに、今後も変わらぬご支援をいただけたら幸いで ある。

アフリカの果てで世界の広さを思い知る       
AMDAジブチ 大野 伸子
AMDA Journal 2005年 7月号より掲載

「ジブチ」と聞いて、具体的なイメージが沸く人がどのくらいいるだろうか 。現在、私は3ヶ月の予定でジブチに出張に来ている。3月中旬に出発する前 に東京の友人何名かと食事をする機会があったが、ジブチに出張に行くこと を伝えると、友人達から決まって帰ってきた言葉は、「ジブチ?それってど こにあるの?」。ジブチは、東部アフリカに位置する人口70万人程度の小さ な国である。国が小規模であることも影響していると思うが、特筆すべき産 業もなく、世界的に注目を浴びる人物もおらず、他所の国で報道されるよう な事件も特に起きない。誰にとっても認識が薄いのは当然だろう。ちなみに 、世田谷区よりも人口が少なく、「国」と呼ぶのに相応しいのか少々疑問で ある。何故このような国が誕生したのか若干興味を持ち、ジブチの歴史を調 べてみた。

ジブチ誕生の歴史

ジブチはかつてのフランス最後の植民地「アッファール?イッサ地区」とし て知られる。フランスがこの地を植民地化しはじめたのは19世紀半ばである 。当時東アフリカの植民地化を進めていたイギリスに対抗するため、オボッ クやタジューラ(ジブチの地方都市)に住むスルタン人は、フランス人がこ の地に移り住むことに合意し、このころからフランス領として成立しはじめ た。しかし、民族、言語、産業形態、民族の放牧地の権利などを全く無視し て国境が引かれたため、現在でもこれらは国の政治を揺るがす問題となって いる。つまり、国という単位でくくってしまうのはあまりにも不都合の多い 形態なのではないだろうか。
 1977年には独立し国として成立したが、独立したのがここ30年以内のこと なので、未だに宗主国フランスの影響を色濃く受けている。法律から経済ま で国のシステムにはフランス人のコントロールがまだ幅を聞かせているよう に感じる。もっとも、最近ではアメリカ軍が入ってきていることで、アメリ カ寄りになりつつある気もするが。

民族の多様性

ジブチの主要民族は、ソマリア系イッサ族、アッファール族であるが、ソマ リア、エチオピア、エリトリア、イエメンなどの近隣諸国に囲まれ、ジブチ には実に多彩な人種や民族が移り住んでいる。一応、公用語はフランス語と アラビア語らしいが、教育を受けていない人はソマリア語やアッファール語 など民族の言葉しか殆ど通じない。エチオピアから移り住んでいるような人 は、フランス語よりもむしろ英語の方が通じることもある。また、イエメン などアラブ系出身の人々は日常的にアラビア語で会話している。生活する分 にはまだ何とかなるが、国家の発展のためには国としての共通言語がないこ とは極めて不利だろうと思う。都市と地方の間での意志の疎通ですら難しい。

遊牧民気質

気温が異様に高く乾燥しているこの地域では、殆ど作物が育たず農業に適し ていない。ジブチの土着の人々がラクダやヤギを放牧しながら移動を繰り返 し生活してきたのは非常に合理的なことであったと思う。ただ、一旦国とし て成立し、人々が国民として登録され、住所を限定されるようになると、こ の遊牧民気質のマイナス面が浮き彫りになる。例えば、決められた場所にゴ ミを捨てる、皆で使う場所はきれいに保つなどの公共心がない(これは特に ジブチ人に限ったことでもないのだが)。何か一つの目標に対して、計画を 立てて行動を行うなどということができない。例えば、ある地方の結核セン ターにおいては、センター内の患者だけでなく、外来患者の家庭訪問などに よりDOTS (Directly Observed Treatment, Short-course=直接監視下短期 化学療法)を試みているが、患者の中には僻地で遊牧民的生活を続けている ものも多く、それらの人々に対してはとてもじゃないがケアが行き届かない らしい。
 難民キャンプ内でも、遊牧民気質のソマリア人、農民気質のエチオピア人 が二つのセクションに分けられているが、彼らの生活ぶりもかなり違う。エ チオピア人セクションでは、家庭菜園を行ったり、鶏など世話の必要な家畜 を育てたり、多少なりとも生活向上計画を立てていそうな気配だが、ソマリ ア人セクションではそのような気配はない。あまり世話の必要なさそうなヤ ギを飼っている人は見受けられるが。また、難民キャンプ内で住民参加型ト イレ建設などの活動を行う際にも、エチオピア人の方がはるかに協力的で組 織的な行動をとるらしい。

余所者に対する態度

ジブチに着いた当初から、ジブチ人の余所者に対する非友好的な態度につい て聞かされていた。現在、青年海外協力隊員の方々を含め、ジブチには13名 ほどの日本人が住んでいる。数ヶ月以上住んでいる人は、ジブチ市内で子供 や若者に石を投げられたり、「アリババ(泥棒の意らしい)」とからかわれ るなどという経験をすでに何度かしている。今まで、出張や駐在でいろんな 国に滞在したが、外国人ということで珍しがられ歓迎されることはあれど、 そのような侮蔑的な対応をされたことはなく、話を聞いた時は多少面食らっ た。幸いなことに私はまだそのような経験をしていないが、確かにバングラ デシュ、ザンビア、フィリピンやカンボジアなどで経験した人々の外国人に 対する好奇心の混じった友好的な対応とは若干違う態度をしばしば垣間見る 。これも、遊牧民の気質に基づいたものなのかどうかはよく分からないが、 いずれにしても同族優遇で他者に対しては排他的であることを伺わせる。

地理的な特異性

前述したように、耕作に適した土地ではないことから農業が発展していない 。また、他の産業も発展しておらず、国民の約80%はサービス業についてい るという統計結果がある。国の経済は何で成り立っているのかというと、ジ ブチには港湾があり他国から来た貨物の輸送を行うことで利益を得ている。 アラブ首長国連邦などは、ジブチ政府に莫大なお金を支払い、港湾の一部を 20年契約で借り上げたと聞いた。また、紅海に面し、アフリカの角と呼ばれ るこの地域においては比較的治安が安定しているため、アメリカなどにとっ ても重要な軍事拠点と認識されているらしく、アメリカ軍やフランス軍が基 地を置いている。彼らが落としていく外貨も相当なものだろう。結果的にこ の国は特に他の産業を発展させる努力をしなくても、何とか成り立っている ようだ。しかし、この状況が国としての底力を奪い、外国に依存的な体質を 作ってしまっていることは否めない。

最後に

今回の私のジブチ滞在は、現在AMDAが行っているソマリア・エチオピア難民 キャンプ支援事業の調整業務の他に、ジブチでのニーズ調査という目的も含 まれていた。新しいプロジェクト形成の可能性を模索する中で、上記のよう な特徴以外にもジブチの様々な特殊性がプロジェクトの成否に大きな影響を 及ぼす可能性があることにも気付いた。「コミュニケーションの難しさ」、 「人々の閉鎖的態度」、「外国の影響を受けやすい」、「人口が少なく海外 援助も集中しやすい」「大学など高等教育機関がなく、高度な技術を持つ人 材は国では育てられない」などなど、プロジェクトを実施する際には十分に 考慮に入れなければならない内容である。
 いろんな意味で特殊な国であった。世界にはこのように自分の想像の枠で は収まらない国もまだまだあるのだなあと、世界の広さを改めて感じられる 良い経験となった。




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