ASMP特集

ASMP報告

AMDA Journal 2003年 3月号より掲載

ASMPとは、2000年から始まったAMDA「魂と医療」プログラムのことです。

第2次世界大戦でとりわけ激戦地であった場所において、戦災被害者のため慰霊祭を行うと共に、その地域の住民の健康増進のために医療保健支援を行う活動です。このプログラムの主旨に賛同された宗教家の方々が無償でこの慰霊祭を執り行って下さっています。

第3回ASMP慰霊祭へのメッセージ
2002年度(一部抜粋)


AMDA理事長 菅波 茂

AMDA「魂と医療」プログラム(ASMP)の慰霊祭に参加して頂き厚くお礼を申し上げます。ASMPの慰霊祭は本年3年目を迎えました。今年はフィリピンとカンボジアで開催いたします。慰霊祭開催に向けてご尽力いただきましたすべての方々に心から感謝致します。

はじめに今も世界の各地で起きている無差別テロで犠牲になられた方々に対して心から追悼の意を表します。同時に、生命(いのち)を軽んじるテロに対しては絶対悪だと表明するものであります。 私がニューヨーク・テロ事件の現場に、またアフガニスタン難民キャンプの最前線に、真っ先に緊急救援部隊を派遣致しましたのも、こうした思いからでした。

さてここでASMPの意義を確認したいと思います。第1回のASMP慰霊祭でも明確にさせていただきましたが、この場を借りてもう一度、意義を確認したいと思います。なぜなら意義を忘れた儀式は形骸化するからです。 AMDAは緊急人道援助及び貧困対策などの多くのプロジェクトをアジアの各地で行ってきました。プロジェクトの現場でお会いした人々から第二次世界大戦の影響が各地に残っている事実を再確認しました。第二次世界大戦はまだ過去の歴史になっていないことを思い知らされました。 少なくとも戦争の因果は三世代にわたり続き、戦争の事実は百年経たなければ過去にならないという現実です。現在はまだ57年目です。

AMDAの平和の定義は、今日の家族の幸福と明日の家族の希望が実現できる状況です。しかしながら、今日の幸福と明日の希望があっても、過去の辛酸な事実が今も心の奥底で払拭されていないのであれば、真の平和は遠いものであると言わざるを得ません。 ここに第二次世界大戦を過去のものとしてはいけない理由があります。

AMDAは、誰からも関心を持たれていない、誰からも必要とされていない、そして誰からも忘れられていく方々を支援してきました。こうして社会から取り残されている方々の今日の幸福と明日の希望の実現のために、保健医療・教育・生活環境向上の各支援を実施してまいりました。 しかしながら、私は第二次世界大戦の事実を無視するわけにはいきません。被害者やその家族の方々は今もこのアジアにいらっしゃいます。

魂への冥福の祈りをするとともに、ご関係の皆様の健康増進のために、「魂と医療のプログラム」を積極的に実施してまいります。慰霊は魂に対する永遠性を、保健医療は命に対する普遍性を持っていますが、生命(いのち)を大事にするという点では価値を共有します。 魂の永遠性といっても、どこか遠い世界のものではありません。直接的・間接的に戦争の被害を受けた方々に対する現実の取組みが大事であります。祈りとは本来人がいかに生きるかを見つめ直す作業です。 その意味でも、具体的にこのアジアの地域で健康増進に寄与したいと思っています。

フィリピンでの慰霊祭

ASMPフィリピン写真

フィリピンでは、2002年11月26日のサンフェルナンド市の教会、27日のマンデカの戦災墓地において慰霊祭を実施しました。

AMDAの地元岡山の最上稲荷山菩提一心寺の中島妙江上人と最上稲荷総本山妙教寺の大瀬戸泰康上人に参加していただきました。アンヘレス近郊の共同墓地では現地参加者と一緒に「聖夜」の合唱も行われ、『大変感動的な慰霊祭』(中島上人)となりました。

カンボジア慰霊祭奮戦記

天理教道竹分教会長 平野 恭助

昨年12月10日から12日までのわずか3日間ではあるが、一昨年のベトナム、昨年のフィリピンに続き、この度カンボジアにおける合同慰霊祭に参加させて頂いた。

カンボジアと聞けばまず頭に浮かぶのが、ポル・ポト政権による200万人とも300万人とも云われる大量虐殺と、長い間他国に占領されつづけた悲劇の国という印象である。

かつてタイ国境にあるカンボジア難民キャンプを訪問したことがあるが、その時数万人の難民たちが十年以上もの間狭苦しいキャンプに暮らす様を見て、早く母国に平和が訪れこの人たちの帰還が叶う日がくれば、と願ったことが思い起こされる。

現在ではカンボジアも和平が実現され、ポル・ポトも死去し、地雷等の戦争の名残はあるものの、安心して訪れることができる国に様変わりしている。

12月10日朝、私は他の天理教のメンバー3人と共にタイからバンコク航空でプノンペン空港に降り立った。一足先にカンボジア入りしていたAMDAの鈴木俊介氏と現地スタッフ数名が出迎えてくれることになっていた。だが、来ない…。 アジア圏お定まりの時間観念で動いている方たちであろうから30分ほど待てばそのうち現れるであろうと思っていたが、一時間近くになってもなかなか現れてくれない。今回またしてもトラブル…、ムム。AMDAジャーナルに今度はどう書こうか…等々思案しているとそこへやっとご一行が現れてくれた。 聞けばバンコク航空(PG)とタイ航空(TG)を聞き違いしていたとのこと。AMDA鈴木氏が「平野さんの過去のジャーナルの文を読んでいたので、今回は何もトラブルのないようにしようと思ってたんですが…」と苦笑する。私の稚拙なASMP報告を読んでいてくれたというだけで嬉しくなり、途端に親近感がわいて待たされた苦痛もどこへやら…。

着いた当日はコーディネーター潮田女史がガイドブックを片手にプノンペン市内の王宮等を案内してくださった。タイの一地方都市に来たような錯覚にとらわれるプノンペンであるが、その市民の素顔は先般のタイ大使館暴動事件にも見られるように隣国タイとは一線を画した民族意識とアイデンティティを根強く持っていることがうかがえる。

もう少しカンボジアのことを知りたかったが、あまりの暑さに少々バテ気味で、次の観光スポットを予定してくれていた潮田さんに早々と降参の意を表しホテルに連れて帰ってもらった(潮田さんゴメンナサイ)。

12月11日、まず最初の合同慰霊祭はプノンペン市内中心部にあるオナ・ラォム寺院で行われた。ここはカンボジア仏教の中心的存在であり、隣接するストゥーパ(仏塔)は第2次世界大戦時米軍による爆撃を受け約120人が犠牲になった場所に建てられたという。まさに慰霊祭を執行するには最適の地である。

カンボジア側からテップボーン師(カンボジア仏教最高権威者)と10人の僧侶が出席し、日本からは私を含めた天理教教師4人とAMDAの鈴木氏ら数名が参列した。

慰霊祭終了後、寺院の敷地内にある中田厚仁さんの慰霊碑の前で黙祷を捧げた。平成5年にUNTACの国連ボランティアとしてカンボジアで活動中に殉職した当時25才の中田さんの胸中に思いを馳せるとき万感胸に迫ってくるものがあった。

12月12日早朝、プノンペンから約90km離れたタケオ州へ出発。天理教4名のうち2名は前夜プノンペンを発ったので、私と関根の2名が残り、次の慰霊祭会場タケオ州モンコル・ミェン・リアック寺院に向かった。

のどかな農村平野と南国情緒豊かな樹木のたたずまいを車窓より眺めながら、映画「キリングフィールド」の一幕を思い出し、わずか二十数年前この地で起こった凄惨な出来事が嘘のように思える。車中鈴木氏の学識豊富で摩訶不思議なトークに時が経つのを忘れ、気がつけば目的地に着いていた。

でこぼこ道を四輪の車に揺られやっと着いた場所は1000人以上の大群衆が待ち受ける慰霊祭会場であった。あまりの人の多さに圧倒され、あわてて教服の帽子をかぶり直し車を降りた。

オレンジ色の僧衣をまとった70余人の僧侶の出迎え。村人・学校児童らのつくる人垣。ご婦人たちによる満艦飾の日傘と足元にまかれる白い花の歓待。エキゾティックなクメール音楽。こちらに向けられたテレビカメラ。盛大な声援・拍手喝采…。

思わず『こりゃぁエライことになった…』と振り返ると、後からついてくる鈴木氏がニヤニヤ笑っている。それもそのはず、車中でそれまで下世話な話に花を咲かせていた人間があわてて聖職者"らしく"、それも大仰に振る舞うさまを見て可笑しかったのも無理からぬ話である。 エディー・マーフィーの映画「星の王子様」の母国凱旋のシーンを思い出しながら、慰霊祭会場へ粛々と進む。

周囲は出店・屋台も出て、ちょっとしたお祭りさわぎだ。これほどまでに村人たちが私たちの到来を待っていてくれたのかと思うと光栄の極みに思うと同時に、この地方の人たちのAMDAを含めた私たち日本人に対する期待の大きさを改めて感じた次第である。

慰霊祭が行われたこの寺院から2km離れた所に第2次世界大戦時日本軍の飛行機が墜落し多数の死傷者を出したという地点がある。当初そこでも慰霊を行う計画を立てていて下さったのだが、炎天下の畦道を20分歩いて移動すると聞かされ、教服の出で立ちでは少し過酷ということで勘弁して頂いた。

慰霊祭祭文を読み上げる筆者(右)と関根氏
慰霊祭祭文を読み上げる筆者(右)と関根氏

合同慰霊祭はカンボジア僧侶の読経で始まり、人数の多さもあって迫力満点。つづいてこちら天理教式慰霊祭祭文奏上。多勢に無勢、聴衆の期待を裏切ってはならぬとの妙な気持ちも手伝って、ハッタリ覚悟で厳かにして朗々としかも思い切り抑揚をつけて読み上げた。 AMDAカンボジアのリティー医師があとでクメール語に訳してくれ、こちらの気持ちは伝わったと一人悦に入る。

参集した村人たちの中から90才を越えるという老女が歩み出て、私たちに手を差し出してきた。この国で90才というのはとてつもない長寿だそうで、彼女は今まで生きていたおかげで外国の"お坊さん"を拝むことができたと喜びも一入なのである。

私自身は他人に拝まれるような尊い人間ではないが、この村の人たちからすれば聖職者として崇められる僧侶同様"神さま仏さま"のような存在となり、触れるだけでご加護があると信じているようである。年老いた女性たちが我も我もと私たちの身体に触れてくる(ちなみに若い女性はいない)。 悪い気はしないが、なにか人を欺いているような面映ゆい気持ちがするのも事実であった。

しかしそんな調子者の私達にも大きな苦難が待ち受けていた。慰霊祭が終わると村人たちは三々五々帰って行った。かと思いきや、めいめい食事を持って舞い戻ってきて長蛇の列をなす。僧侶たちがゆっくりとその列を廻って托鉢を始めた。そして集まった料理を上級僧侶と同席して私たちが頂戴するというプログラムになっていたのだ。

何百人という村人たちが好奇の眼差しで私達の食事を注視している。料理自体もあまり食べたことのないクメール料理で、どうも食欲をそそられる代物ではない。上級僧侶たちは既に食べたからと言って箸をつけない。自然私たちが食べることが皆の最大の関心事となる。喉を越さないというのはこのことだ。 人々の視線が痛い。村人たちは自分が作った料理を僧侶に食べてもらうことで自分たちも極楽に行けると信じているとのこと。「食べなきゃダメですよ」と鈴木氏は非情にも催促する。『これは拷問だ…』と隣の関根は苦悶の表情を隠しきれない。なんとかまんべんなく口をつけてその場をきりぬけた。

慰霊祭が終わり、すぐにでも教服を脱ぎたかったが、「村を離れるまでその格好でいてください」とまた鈴木氏。「村人たちの夢をこわしてはいけませんので…」と。これも"行"の内と仕方なく汗まみれのまま車に乗りAMDAの診療所などを訪問した。

それにしてもプノンペン市内で行った慰霊祭とは全く異なるタケオの慰霊祭であった。周囲十三ヶ所の村からほとんどの村人たちが集まったとのこと。また各村々の寺院僧侶もみな出席し、この地方の知事までも出席しスピーチを行った。まさにこの地方をあげての大イベントとなったわけである。

AMDAの菅波代表はASMPというプロジェクトにこのような形を求めていたのではないかと鈴木氏は云う。確かに今までの合同慰霊祭は一部少人数の聖職者及びその関係者が参加するものであり、このタケオのように大規模に地域住民を巻き込んでなされたことはかつてなかったように思う。 今回カンボジアに来て初めてASMPの意義の深さと可能性を感じることができた。

太平洋戦争という負の遺産を共有するアジア諸国において、過去の戦争犠牲者の御霊(みたま)を慰霊することは裏返せば現在を生きる私たちお互いの魂の癒しにも通じるのであり、それなくしては真の相互理解が達成されることはない。まさにこのASMPを発案した菅波代表の叡智・霊智に心より脱帽いたす次第。

今後この地域で展開するAMDAの診療活動・救援活動に少なからぬ村人たちの賞賛と期待が増していくことを実感し、カンボジアを後にした。




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