ASMP特集

2001年度 AMDA「魂と医療」プログラム
AMDA Soul and Medicine Program


AMDA Journal 2002年 3月号より掲載

AMDA「魂と医療」プログラムは2000年に開始した、AMDAの新しい活動です。第二次世界大戦で亡くなられた全ての人たちのご冥福をお祈りするとともに、戦地となった地域の住民の方々の健康増進のため、保健医療支援を行っていくことを目的としたプログラムです。


AMDA「魂と医療」プログラムに参加して

平成13年11月25日〜12月1日
佛教寺 宮地 甫守

はじめに

私は郡佛教会の席で泰養寺 寺田僧正よりAMDAの慰霊祭についての話を聞き、興味を持ったので寺田僧正と一緒に本部での説明会に参加しました。ASMP実施国は五カ国(サハリン・パプアニューギニア・インドネシア・フィリピン・ミャンマー)であり、私は今までに行っていないミャンマーと決めました。 この国は佛教国であり、多くの戦死者がいると聞いていましたし、まだ見ぬ国に興味があったからです。

参加者

僧侶 宮地 甫守
(医)アスカ会
小山田 孝子
杉森 彰子
松石 明子
島田 美年子
AMDAスタッフ
小林 哲也
竹久 佳恵
橋本 直子 他
現地僧侶
AMDA現地スタッフ

慰霊祭日程

2001年11月27日 メッティーラ市
ナガヨン パゴダ
11月28日 チャパタウン市
シュエタンサー パゴダ
11月29日 パコック市
スージーパン パゴダ

慰霊祭次第

  1. 入場
  2. パゴダ代表者による開会の挨拶
  3. 市当局代表者の挨拶
  4. AMDA菅波理事長の挨拶文代読(AMDAミャンマー駐在代表小林)
  5. 日本人僧侶、参加者による挨拶
  6. 日本人僧侶によるお祈り
  7. ミャンマー僧侶によるお祈り
  8. 日本人僧侶による閉会の挨拶

*ナガヨン パゴダでの慰霊祭

AMDAの車で到着。早速本尊の前祭壇へ行くと祭壇には花、ローソク、線香が準備してあり、日本の鑿子、木魚、引鑿も用意されていた。このように日本式の用具があるのも納得することができた。このパゴダは日本の資金で建てられ、多くの宗教者がここで慰霊祭を行なっていると聞いたからである。 日本に帰国し、関空の税関でも慰霊祭に行ってきたと言うと、さっきも慰霊祭に行った人が通過したと言っていた。

法衣を着け、席について待っているとちょうど12時に当地の僧が堂内に入り、大僧正と数名の関係者が着座。祭壇には両国の国旗が飾られ、日本から持参した千羽鶴もお供えされていた。ローソクに点灯、線香は用意してもらった当地の線香と持参した線香を立て、慰霊祭が始まった。

慰霊祭次第 5.日本人僧侶挨拶では以下のような挨拶をした。

『私はAMDA「魂と医療」プログラム合同慰霊祭に参加致しました高野山真言宗の佛教寺住職宮地甫守です。この度はミャンマーメッティーラ市、チャパタウン市、パコック市(挨拶文は三ヶ所とも同じで、場所名のみその都度変更)の関係者のご尽力により本日参集の僧侶と一緒に慰霊祭を修することが出来ます事に感謝いたします。

第二次世界大戦は21世紀における人類史上最も悲惨な出来事でした。私たちは二度とこのような悲惨な世界戦争が起こらない事を願っています。本日は当寺において日本とミャンマーの人々と一緒に第二次世界大戦で犠牲者となった両国の方々の慰霊が出来る事を大変嬉しく思います。これから真言宗の作法に依り回向致します。』

まず酒水を行ない理趣経、第二次世界大戦ビルマ戦没者慰霊之文、回向を修する。

また、慰霊祭次第 8.閉会の挨拶では『只今はAMDA「魂と医療」プログラムによる合同慰霊祭が厳修出来ました事に感謝申し上げます。これも当市の関係者、特に当地の大僧正によるご協力があったから出来たのだと思っています。第二次世界大戦で亡くなられた日本の英霊、当地の方々のご冥福を回向致しましたので喜んでおられます。

私たちは平和と開発のための世界的なパートナーシップを通して世界が永遠に平和と協力のもとに生存出来る事を希望致します。本日は有難うございました。皆様方のご多幸を祈念し、お礼の詞と致します。』

慰霊祭式典後、別席でジュースの接待を受ける。周りには日本各地からの名板が多数あった。また、AMDAの巡回診療を行なっているマジス村の診療所や近くの寺内の小学校をAMDAの車で案内してもらった。

*シュエタンサー パゴダでの慰霊祭

昨年の洪水被害者の仮設住宅村を見学、小学校に寄り子ども達にみやげの鉛筆を配り、慰霊場所へ。途中消防署に寄り、消防車の先導でパゴダに行く。

会場は本尊の前に椅子があり、僧侶と一般の人が相対して座るようになっていた。祭壇は一段高い机で、花、果実のお供があり、前にはローソク、線香をお供えする壇があったが引鑿等はなかった。法会は13時から始まり、当地の僧侶は椅子でお祈りをされたが、私は本尊に対して座り、前回と同じように回向を行なった。

この会場には消防署関係者等多くの方々が参列されていた。当パゴダの大僧正から昨年来られた方(中島上人)は今年はどこへ行かれたのかと尋ねられた。また井戸掘のポンプ等を見学するなど(支援がメモ書きで示されていた)寺内を案内して頂き、耳飾りのある仏にもさわらせてもらった。

*スージーパン パゴダでの慰霊祭

ホテルから1時間位車で揺られエーヤワディー川にあるフェリー乗り場へ。フェリー貸切でパコック市に到着。まずパコック総合病院小児病棟に行き、保健大臣の弟さんの家に寄る。早い昼食を済ませ、最後の慰霊祭会場に向かう。

このパゴダのご住職であり、ミャンマー仏教会で第三番目の地位におられる大僧正が待っておられ、この場所での慰霊祭は初めてとのことで大歓迎を受けた。

まず車から降りて会場までの間は小学生、尼僧達が両側に並び、多くの人たちからの出迎えを受けながら堂内に入った。堂内には関係者や多くの参拝者、そして先程の小学生、尼僧達も参列していた。祭壇は中央にあり花や果実をお供えし、私の前の机にはローソク、線香があり、点火して式を始めた。 法要が終わって小学生、尼僧達が私に1人1人手を合わせて退出して行った。帰りのフェリーより、三ヶ所で供養した塔婆を流し、魂を供養して帰途に向かう。

三会場ともに日本から持参した線香一箱をお供えし、御供をして気持ちを表して帰った。

あとがき

AMDA「魂と医療」のプログラムに参加し、貴重な体験をさせて頂きました。AMDAのミャンマーでの活動状況も各所で見学して、内容の理解も出来ました。

慰霊祭は国内で戦死した英霊、戦争の為に亡くなった人達の回向を塔婆によって致しました。そしてこの塔婆をミャンマーで一番大きい河エーヤワディー川(この河でも多くの人が亡くなっていると思われる)に流し、供養できたことに喜びを感じました。

このプログラムに参加出来た事、またミャンマー駐在員の小林哲也氏、その他のスタッフにお世話になり、無事終える事が出来ました事に感謝申し上げ報告と致します。


フィリピン合同慰霊祭参加の記

天理教道竹分教会長 平野 恭助

昨年の慰霊祭はベトナム・ハノイへ行かせて頂いた私であるが、今年も又お誘いを受け今回はフィリピンのマニラで合同慰霊祭を執り行わせて頂いた。 当初インドのインパールが第一候補地であったのだが、そこはインドでも特別地区に指定され普通の査証だけでは入れないということで出発予定日の2ヶ月以上前から入域許可申請を出したのであるが、結果的には許可が容易には下りず目的地をフィリピンに変更した次第である。

今回の渡航にあたって私自身タイに私用があり、先にそれを済ませてその帰路天理教からのもう一名の参加者関根氏と合流しフィリピンに赴くという行程をとった。それゆえフィリピンのマニラとタイのバンコクとの違いがはっきりとわかって興味深いものがあった。 アセアン諸国の中でタイとフィリピンはライバル的存在と思っていたが、マニラ空港から市街地へ向かう車窓から眺めた光景はあきらかにバンコクの方が一日の長がある。 マニラの街並みはどこかしらスペイン統治期の名残りなのかメキシコのようなエキゾチックな情緒はあるが、マニラ湾沿いのエルミタ地区にあるホテルに逗留し日が暮れて周囲を散策に出かけた際、そこここに物乞いをする子供や暗闇の街路にうずくまるホームレス達を見た時、まだまだこの国は発展途上国というイメージが拭い去られない気がした。

AMDAのラモス医師より夜9時頃ホテルに電話が入ることになっていたが、午後10時過ぎてもかかってこない。こちらは"彼"の連絡先を知らない。明日にひかえた慰霊祭の打ち合わせをしなくてはならないのに、どうしたのものか…。本当に明日が慰霊祭のつもりでいてくれるのであろうか…。 昨年ベトナムで慰霊祭に参加した際、社会主義国ゆえに外国の宗教の形式にのっとった慰霊祭が出来ず不本意に終わったことが思い起こされ、「今回も又トラブルか…」と一抹の不安が脳裡をよぎる。そうなれば又この誌面で菅波代表謂うところの"間接的いやみ"を書くことになるか…などと思いながらいつの間にか眠りに落ちていた。 連絡は翌朝8時過ぎにあり、その時たまたま食事に出て不在であった私たちに『午後3時過ぎに迎えに行く』旨のメッセージが残されていた。前夜の不安は杞憂に終わりホッとした瞬間、何故か菅波代表のにんまりとした笑顔が浮かんだ。

30日午後3時半に迎えの者が来て、慰霊祭の行われるカトリック教会に案内された。

"HOLY FAMILY CHURCH"と云う名前の教会はマニラの中でもかなり貧しい地区おそらくスラムに近いような場所の中心に位置しているのであろう、周囲の家並みや人々の雑然としながらも活気のある雰囲気から説明を受けなくてもそれと分かる。 慰霊祭が始まるのは午後5時の予定であったが、教会までの距離を考えれば3時半に迎えとは早すぎる…と思っていたところ、ひどい交通渋滞を経て辿り着いたときは30分前になっていた。

AMDAの九里医師とラモス医師らが出迎えてくれ、神父さんや他のメンバーを紹介してくれた。九里医師は2年以上も伸ばしているというヒゲが印象的であった。が、AMDAのコーディネーターに共通した人当たりの良いしなやかさもちゃんと兼ね備えている。 ラモス医師はその名からして男性であると思い込んでいた私は、初対面の時この恰幅のいい女性がモスラさん(違う)ラモスさん…とわかり、思わず言葉に窮した。

私たち天理教としては、このカトリックの教会のイエス像を前にして、神式の祭壇を拵え御供物を供えるのに多少の違和感を感じつつも、同じ神の子として祈りを捧げる共通の思いを持つお互い、不思議と自然な流れの中で合同慰霊祭を執り行うことが出来た。 前半は天理教式慰霊祭、後半がカトリックの祈りとつづく。数十名の参列者とビデオカメラが廻る中、私も祭文を読む声に力が入る。参拝の段になって神父さんたちが天理教式の礼拝作法をためらいなく行っている様を見て、やはりたとえ異文化の他宗教であってもそれに「合わせる」ことが出来得る人は真の宗教家たるゆえんと改めて納得した次第である。 神父さんの賛美歌も非常に美しく神々しさ溢れるもので、こちらも自然とメロディーが口からついて出る。隣に座る関根氏が「神父は唄がうまくなけりゃ務まらないね」などと耳打ちする。

祈りが終わった後は、AMDAの川崎さんが英訳してくれた私の祭文をラモス医師が英語で朗読。頭をひねって難解な祭文を格調高い英文に仕立て上げてくれた川崎さんに心より感謝の念が湧く。この地区の市長の息子と云われる青年も参拝し、そのついでにスピーチを一発。 さすが政治家二世、そつがない。予定時間を少しばかり過ぎたが、感激のうちに合同慰霊祭は終わった。慰霊祭終了後、場所をかえて市内の中華レストランで会食。AMDAのメンバー数名のほか神父さん2名を含む教会関係者及び私たち天理教の者2名の計12名が集まった。 外国で宗教家と云えばアルコールや煙草はタブーであり、ましてやカトリックの神父さんの前では失礼にあたると思い、飲み物にビールを注文するのを躊躇していたところ、当の神父さん方はためらうことなくビールを注文。少し驚きつつもこちらに合わせてくれたのでは…と思わず嬉しくなりたちまち意気投合。 なごやかなひとときを過ごしつつ再会を期して散会した。

慰霊祭を行ったHOLY FAMILY CHURCHのすぐ脇にAMDAの診療所が建設される予定とのこと。確かにこの貧しい地域に無料のヘルスポストが建てられればさぞかし救かる人も多いことであろう。ASMPの意義がこの地に開花される日が少しでも早く来たらんことを祈りつつ筆を置きたいと思う。


サハリンでの慰霊祭

最上稲荷山菩提一心寺住職 中島 妙江

大東亜戦争を中心に、20世紀に人間が起こした戦争の被災ならびに戦病死歿者の慰霊を世紀末をめどに行おうと、AMDAの呼びかけにより幕明けとなったASMPも2年目を迎えました。

さまざまな国の諸々の霊を慰めるためにご参集くださるお上人様方、信徒の皆様、さらにその主旨にご賛同下さる一般の方々が心を一つにして行われる慰霊祭ですが、今回私どもはサハリンという雪国のご縁を頂きました。

慰霊祭の開催は毎年11月25日ごろとなっていますが、秋が深まると現地の気候条件が悪くなるため、サハリンは1ヶ月繰り上げての出発が決定されました。

今回サハリンを訪問した一行は、大瀬戸 泰康、K夫妻、わたしこと中島妙江の4名です。

10月18日、一行はまず岡山・広島から函館入りしました。この日、Kご夫妻は結婚記念日で、20年前の新婚旅行でも同地を訪れられたとか、二度と来ることはないと思っていたと感慨深げでした。

翌朝、函館空港からサハリン航空142便にていよいよ出発致しました。共産圏だった国って、どんな国なのだろうと興味津々、自分の気持ちが少し昂ぶっているように思いました。約10分遅れでフライトとなりましたが、座席に着くとまもなく、全身はげしくマッサージ器にかけられたような振動、なんとこれがプロペラ機の振動です。 上空に至れば止むだろうと思っていましたが、あにはからんや、着陸するまでやむことはありませんでした。鼓膜がいつ破れるかと思うような騒音、座席の堅さ、そのうえなんとはなし右ひざのあたりにすうすうと隙間風のごときが吹きこむのです。もはや諦めるより方法はなし!

離陸後1時間ほど経過したころ、眼下はやっと青々とした海上にさしかかりました。

時速350kmほどの速度、また低空でジェット機では味わえない風景が感じられます。

窓外の海原や大地を眺めて、機内食を頂いて、気がつくとサハリンでした。

着陸した後もプロペラの音で耳が変、機外はピーンと張りつめた、晩秋の空気が感じられます。当日は今季初の寒冷日で、朝の道路は氷が張ったそうです。

空港ではサハリン北海道人会会長の奈良 博さんがお迎えくださり、会員の白畑さんと女性3名もお迎え下さいました。白畑さんは、我々一行の滞在中運転手兼案内役をしてくださる男性で、実直な方でした。

初日のこの日は、在ユジノ・サハリンスク日本領事館と北海道サハリン事務所にご挨拶に伺い、車の盗難防止用ブザーがあちこちで響く中をホテルに引き取りました。

翌10月20日の朝、ユジノ・サハリンスク市内にある霊園に向いました。何万坪あるのでしょう、広大な霊園のほぼ中央に日本人の慰霊碑が建立されていました。

天候はよく、薄雪を踏む程度でした。ですが、準備をしているときから頭痛、胃痛、吐気に襲われ、ここに眠る日本人がさらされた地獄絵を思うと、ただ諸霊を和らげたいとの気持ちで祈りました。

ユジノ・サハリンスクの霊園内の慰霊碑にて
ユジノ・サハリンスクの霊園内の慰霊碑にて

信仰深いキリスト教信者の霊位に私どもの祈りのことばが理解していただけず、魂が落ち着かないことがあってはせっかくの機会を頂きながら十法界の諸々霊に申し訳ないと思い、ロシア正教の各霊に通じるかどうか、マザーテレサより拝領のメダイを共に安置し、供養会を執行致しました。

聞くところによると、ロシア政府は墓地を移動させて、大規模マンションを造成する計画があるとか、供養後体調はおさまり、言葉もなく霊園を後にしました。

食事の後、白畑さんのご案内で市内見物とお土産探しに出かけました。面白かったお土産は、歴代の首相が出てくるマトリューシカ(組子の人形)です。 実際に街を歩くと日本で描いていたイメージは吹っ飛んでしまいました。店頭には日本や中国からの輸入品が並んでいます。 街はだだっ広く、簡易舗装の道路は広く、車がお腹をこすることが多いようです。もちろん暴走族はいません。

白畑さんは昔はお金があっても品物がなく、今は品物があってもお金がない、とおっしゃっておられました。

翌21日は、ホルムスクと熊笹峠での供養がありました。再び白畑さんの運転で、10時ごろホルムスク(真岡)市に到着しました。

ユジノ・サハリンスクとホルムスクは簡易アスファルトの道路が開通したお蔭で、行き来が楽になった由、道のりは1時間余でした。道中、すすきが原のような曠野が続く中、2、3坪ほどの家屋が点在しています。雪の中どのように暮らすのかと思いながら、通過しました。

ホルムスクの日本人供養塔は、いつごろから何人の方が祀られているのか定かではないとのことでした。墓碑の正面には間宮海峡が、すぐ隣にはマンションがあり、そこの子どもたちが遊びに来るようです。ここに眠る諸々霊は淋しくないことでしょう。

道中で細かい氷雨になりましたが、到着したころにはかなりの降りになってしまいました。

戦中はかなりの方が海の藻屑となられ、海峡に臨むホルムスク港から後ろ髪ひかれるような思いが伝わってきて、どなたも共に供養しました。涙雨のように思えました。

雨と風の中、我々が傘をさしていないものですから、参加者の方々も傘を手にされません。ご高齢の方まで気持ちを合わせてくださり、感謝の念でいっぱいになりました。

ご参加くださったホルムスク市在住の北海道人会の皆様には、雨の中で出会い、降りしきる雨と風の中でたいしたことばも交わすことなくお別れしたのは、ほんとうに残念なことです。

この後、ホルムスクからユジノ・サハリンスクに戻る道中にある、熊笹峠に向いました。この峠は、敗戦になった後も当時のソビエト軍と日本人が壮絶に戦ったという場所です。名前のとおり、熊笹が白樺の根元にたくさん自生しています。

峠のややひらけた頂きに、ロシア兵のための大きな供養塔が置かれていました。その近くに、敗残の日本兵が頂上をめざして登ってくるロシア兵めがけて撃ちつづけたという壕がありました。大人が十人ほど入れるくらいの大きさでしょうか。

風はまだ強かったのですが、雨はすでに止み、4名だけの淋しい供養でしたが、充実した供養でした。溢れる涙をこらえることができませんでした。こうして予定されていた三ヶ所の供養が無事おさめられ、我々は熊笹峠をあとにしました。

この日は最終日でしたので、日本料理店でサハリン北海道人会の方々との会食を開きました。「来年もまた来てください」とのおことばを頂戴し、その他いろいろなお話を聞かせていただきました。

皆さん明るく親切で、最高齢者は大正12年(1923年・日本では関東大震災のあった年)生まれの女性でしたが、矍鑠としていらっしゃいました。

今から4、5年前までは食べるにも事欠き、粟を食べておられたとのこと、3年ぐらい前からお米のご飯が食べられるようになり、幸せです、とお話されていました。 日本は飽食で食べ物を捨てているのに、と痛い思いでした。いつまでもお元気でいてください、と心から申し上げて、お別れしました。

お世話になったサハリン北海道人会の方々、同行の面々に感謝、また来年の慰霊祭の成功を祈って筆を擱かせていただきます。

合掌




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