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アフガン難民支援活動の終了によせて
 
 
AMDA本部職員 小西 司
 2002年1月、冬の日没を忘れることができない。厳寒の沙漠で、周辺地域ではすでに凍死者も出ていた。夜には気温零下になるラティファバードキャンプに難民の受入れがはじまり、AMDAの仮設医療テントがようやく立ち上がった頃、キャンプにはすでに臨月の女性が5人居た。
 ある日の16時ごろ、早い夕暮れの迫る中、陣痛に苦しむ四十代の妊婦は体力を消耗し、自力で産み出せない。キャンプの住居テントは数日前に建てたばかりで何も無く、治安状況から日没後の女性医療職のキャンプ滞在はまだ認められなかった。しかし、仮に市内の病 院へ救急搬送した場合、1時間30分の悪路を移送中に、沙漠の夜道で出産という最悪の事態も考えられた。ここでとりあげるしかない。工藤ちひろ医療調整員とアフガン人助産師ファリバが臨時の産室となった砂まみれのテントに入り、てきぱきと指図を始める。ろうそくの光が頼りの小さなテントで、すでに岩山に日がかげる17時過ぎ、「無事、産まれました」工藤MCとともに無事とりあげたファリバの、安堵と疲労しきった表情は未だに目に焼き付いている。
 キャンプ初の産声に、その場に居合わせたUNHCR職員も胸を撫で下ろし、それまで支援見合わせの状態が続いていた他の国連機関からも、協力を得られることになった。この後、ラティファバードはベビーブームを迎え、AMDAは仮設診療所での出産前後の支援システムづくりに追われることになる。新しい生命にかかわることは、きびしい冬の緊張と波乱の多い仕事の中で、せめてもの小さな喜びであった。

 開設後1ヶ月も経つと、キャンプ内には生活感が満ちてくる。言うなれば数万人の住宅地がわずか数週間で形成される。ただ、そこでの暮らしは消費生活であり、生産活動はほとんどなされない。それでも市場ができ、肉屋が開き、結婚式があり、刑事事件すら起こ る。暮らしが、土地に根ざしてくる。
 そんなある日、「お宅の医療テントで、ウチの子どもも診てよ。粉ミルク、ウチにも頂戴よ」キャンプから100mと離れていないところに住む地元農民から言われた。
「公立病院の患者は7割が難民だ。誰のための病院だか、分からない」同病院看護師の嘆息。
「このあたりは元々林で、緑があったんだよ。難民が来てから少なくなって、今じゃあ、みんな、なくなってしまった。」すでに帰還がすすみ、更地になったピシン地区の難民キャンプ跡地を指して村人が説明する。こうした不満の原因は、必ずしも難民がそのすべて
ではないだろう。しかし、こうした言葉は、100万人を越える難民を受け入れてきた国の人々の感情の一面を表わしている。
 難民キャンプが形成される土地は、概ね人口の少ない土地、つまり居住にはもともと適さないところであることが多い。バロチスタン州に形成された難民キャンプ地は概ね沙漠地で、もとより自然環境、特に地下水の確保が難しい。ただでさえ僅かな緑を削り、乏しい地下水が汲み上げられるのを傍目に、たとえばより安全でより良い医療をキャンプ内で実施すれば、受け入れ地域住民との格差を生じさせ、反感を買うことにつながる。
 受け入れ地域住民の生活向上と、難民事業の成果を一致させるのは、簡単ではない。アフガニスタン国内の情勢だけでなく、このような地域の不安定要因が、難民キャンプ周辺の治安情勢悪化へと繋がることも度々あり、その時々に交渉の前面に立つUNHCRスタッフの方々のイニシアティブに、どれだけ助けられたか判らない。

 難民事業の最終的な評価は「故国への安全な帰還」だろう。しかし、難民の帰還が早く進んだキャンプでは、結果的に難民=受益者数の減少、それによる予算縮小と受入国であるパキスタン人スタッフの解雇が早まるという事態が進んだ。しかも、帰還の進んだ後には、夢は何も残らない。受益者=難民の喜ぶ顔は、国境の彼方である。いずれ歳月を共ににした建物は取り壊され、難民キャンプは更地か、ゴーストタウンになる。

 開発プロジェクトであれば、たとえば建物ができること、教育が普及すること、貧困が削減されることなど、活動の評価と、受益者の参加、地域住民の成果や拡大と持続性に大きな矛盾はなく、評価を共感することができる。しかし難民支援事業では、これらが概ね一 致しない。
 隣人として「何のための支援・協力か」という問いを、自己の中で常に整理・反芻しつづけなければならなかった受入国住民・参加職員の協力と忍耐に、遠くに暮らすものとして感謝している。また、不満から時に反発し合う「民族」、しかしそうした隣人どうしの反 目をなくし、目指す理想を一致させるよう、根気強く対話を続けてくださった各リーダー=派遣調整員・医療調整員皆さんの心的負担と努力に、そして支援しつづけてくださった方々に感謝している。

 2003年頃より、それまで特定の新難民キャンプでの直接診療活動から、帰還難民への医療支援に加えて段階的に旧難民キャンプへと活動範囲が拡大された。これは帰還事業が促進される一方で、帰還することが困難な難民や旧在の難民キャンプ住民が残される形となっ たため、AMDAの活動もこうした人たちへの支援に広がったといえる。
 主にVRCとレファラルシステムの維持、結核予防診療活動であるが、それまでの医療救援の延長としての活動と異なり、AMDAの役割は、直接患者に接するとは限らず、他団体の医療活動を支援・指導する形態になった。
 こうした活動は団体間の調整に時間と労力を裂かねばならず、事業内容の大きな変化に伴い、60名近い数の職員の離職や異動が起こった。また、このような事業形態の変化と役割の変化は、同時にAMDAの活動の、他団体への引継ぎのプロセスでもあった。
 難民という、本来移動するグループが定住化する中、治療が数ヶ月間に及ぶ結核の予防診療や、地域病院との協力でなされる重症患者への診療システムとして、各地のキャンプ(すでに難民居住地と言うべきかも知れない)にベースを持つ保健医療団体が主体的に担え るように移管がすすめられることになった。事務所としても次第に規模が小さくなり、最大事100名を数えたスタッフも、20名程度に縮小していた。

 「紛争解決」、という言葉には矛盾が含まれている。当事者にとっては、紛争は解決の手段なのであって、他の選択肢がないか、あるいはそれが一番てっとり早い故に紛争を起こしているのだから。私たちが第三者として関わる場合、選択肢は二つ。武力を有する者で あれば力を誇示して紛争を止めさせる。しかし、AMDAのような、それをもたない民間団体は、紛争当事者の陰に居る、実は多数の、紛争による成果と無関係(あるいは被害者)の人々を見出し、彼らを支援しつつ、そしてその立場によりそってメッセージを発信し続けるよう努力するしかない。
 アフガニスタンでは、本来の住民には無関係の、外部の紛争を持ち込まれ、人々が否応なく紛争当事者にされ、あるいは巻き込まれていた。少なくともその紛争当事者から離脱した難民たち、そして紛争当事者の通行を拒絶できない無力なアフガニスタン南部の村人 たちが居た。「武装グループが来たらどうするか?私たちに拒む力は無い。穏便に歓待し、静かに出て行ってもらうのを待つしかない」マルーフの村長は静かに話していた。
 しかし2003年頃には、メディアや大手救援団体は、外的な紛争に巻き込まれていたはずの彼らへの関心をなくしていき、「部族」という枠組みで紛争を語りはじめていた。AMDAは、こうして忘れられようとしていた人たちの傍に立ち、必要とされている、という関心と 存在を示し続けた。
 2007年3月、そのプレゼンスに終止符をうち、以後は活動を継続している現地NGOとの連携に特化していくことになった。この地を離れることにはなったが、メッセージの発信を絶えさせてはならないと思う。
2001年の救援期以来、これまで5年半にわたりご支援、ご指導、ご鞭撻を賜りました皆様に、この場を借りて厚くお礼申し上げます。有難うございました。

 
アフガン難民:サラナン・キャンプで思ったこと
 
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)クエッタ事務所長 浅羽俊一郎
 炎天下、青年たちが案内してくれたサッカーグランドは、キャンプ中心から四輪駆動に揺られること数分、難民住居を囲む高い土塀と土塀の間の泥道を走りぬけたところにあった。それはキャンプ地の裏に当たり、その先は見渡す限りただ一本の樹木も植わっていない荒地がひろがっていた。昨年8月、ここサラナン・キャンプを訪れたのは、スポーツ用品メーカーのナイキが世界各地の難民児童に寄贈しているサッカーボールがこのキャンプにも分けてもらえることになり、その贈呈式をこのサッカーグランドで執り行うためであった。
 地元職員二人、コミュニティー開発担当の国連ボランティアと学生インターン、合わせて四人の女性スタッフとともにクエッタ市から車で走ること一時間半。サラナン・キャンプに到着し、待ち合わせ場所の小学校に行くと、出迎えてくれた顔なじみの青年たち数人が、サッカーグランドに行く前に話し合いに参加してもらいたいという。彼らの後について教室のひとつに入っていくと、彼らの仲間のほかに、長老たちが壁に沿ってロの字型に座っていた。合わせて25人くらいいただろうか。何のことかと思ったら、この機にサッカーチームを結成したい自分たち青年グループと、それを許可しないと意地を張っている長老たちの仲裁に入ってもらうのがねらいだった。話し合いは穏やかに進められたが、なかなか折り合いが付かず、結局青年グループが長老たちへの説得をこれからも続けるということでひとまず会はお開きになった。
 どこにでもありそうな若者と大人たちとの意見のぶつかり合いではあるが、偶然とはいえ、キャンプで目の当たりにしたことは爽やかな驚きだった。また、この男どもの話し合いのまっ只中に四人のわが女性スタッフが当たり前のように同席し、通訳したり意見を述べていたが、後から思えば決して当たり前なことではなかった。長老たちも長いつき合いの中で国連やNGOの女性たちを別格扱いしていたのかもしれない。とにかく私たちは長老たちを残し、青年たちと連れ立ってサッカーグランドに向かったというわけだ。

 昨年一年、出来るだけ多くのキャンプで、時間をかけてじっくりと難民たちと話すように心がけてきた。目的は二つあった。ひとつは難民の生活をより近くで見ること。もうひとつはUNHCRの活動規模・予算の縮小に備えて、彼らの自助努力を促すこと。本国への難民の帰還が進むなかで、主なドナー国は資金援助をアフガニスタン側に移し始めており、今までのような自助努力の奨励程度では間に合わない(註1)。しかしキャンプを頻繁に訪ねることは難しく、行ったときには2−3時間同じ連中と過ごすように心がけた。形ばかりの意見交換では決して本気で話しを聞いてもらえないと思ったからだ。
 UNHCRは90年代半ばにもキャンプの自主運営・自助努力の促進を試みたことがあった。キャンプごとに給水・医療・教育の三つの委員会を設置し、難民たちを指導して各世帯の財政事情に応じて費用の一部を負担してもらい、集まった資金を各委員会に還元するというものだ。残念ながら今では委員会がほぼ機能停止しているキャンプが多く、機能していても費用徴収の段階から進んでいなかったり、ひどい場合は委員たちが難民からの負担金を着服していて、何のための委員会かというところもある。このため、当時の自助促進キャンペーンは自主運営までには至らなかった。ただし、同じパキスタンでも、北西辺境州では20年前からキャンプ内のコミュニティー活性化に力を入れていたため、その分自主運営を進めるための下地が出来ており、委員会活動もバロチスタン州内のキャンプより進んでいた。
  この30年のうちには、アフガン難民の社会の中でも様々な変化があった。(←救援事業より、社会変化に焦点があるように思い、このようにしてみました。)2006年末の時点でまだ240万人以上パキスタンにいることになっているが、その過半数が雇用機会の多い都市やその近郊に移り住んでいる。バロチスタン州の場合、65万人のうち51万人はクエッタや他の市町村に散在しており、キャンプ住民はおよそ14万人。そのキャンプ住民でも働き盛りの男たちは出稼ぎでほとんどキャンプにはいない。また、世代交代が進展しており、先の若者たちなどはキャンプ育ちの二世代目にあたることになる。地域住民との関係も深まり、地元経済に食い込んでいる難民もいる。ゆとりがあれば子供をパキスタンの学校に入れ、ウルドゥー語・英語を学ばせる。女子教育を頑迷に反対していた長老たちも今やとても熱心で、どのキャンプでも女子小学生のための教室や、個人が自宅を開放した寺小屋がある。その反面、10代半ばを過ぎた女性にとって中高等教育や社会参加は今でも難しい。さらに、長期の援助漬けと生存競争とで、かつて緊密であった部族内の相互協力体制もいつの間にか形だけになっていたり、形すらないというのが実情だ。
 そこで、先程の話に戻る。おざなりの話し合いや平凡な広報活動では難民が動かないだろう事は前回の失敗で分かっていた。だから、この一年難民に対して執拗に食い下がり、「今までのように援助が続くと思うな」と説得し、同じ苦情を繰り返すしかできない長老たちには「あんたたちとは話してもしようがない」と突き放し、学校の先生や若者たちに集中的に話しかけた。繰り返し自助努力を訴えるなかで、キャンプ内に動きが出てきた。彼らの一部、特に若い世代が自主的に話し合いを始めた。母親の中からも何かやりたいというグループが出てきた。一方、去年の夏からキャンプ毎に小学校の規模が縮小され、キャンプ内にある中学校は閉鎖された。十年一日の長老たちもこの期に及んでようやく今までと何か違うとは気がついたようだった。


サラナン・キャンプ にて 筆者(右端)
写真提供:UNHCRクエッタ事業所
 では、UNHCRのパートナーであるNGOグループはこの方針の変化にどう対応したか。彼らとの話し合いも最初は難航した。こちらが難民の自助努力促進に活動を切り替えようと提案しても、当初は理屈では分かっても、まず予算縮小に抵抗し、次に単なる活動の縮小を逆提案してきた。でも、さすがにベテランのNGOグループ。いまや積極的に様々な方法で難民たちに働きかけている。
 2001年の9.11同時多発テロと続くタリバン政権の崩壊後、大規模な本国帰還に合わせていくつものNGOが国境の両側で活動を進めていたが、今ではその数もかなり減ってしまった。覚えておきたいことは、NGOが単に救援活動の担い手だというだけでなく、実に難民たちと彼らを支援する各国市民のパイプの役割を果たしていることだ。彼らが現場を撤退するということは、即ちパイプ役が減ることを意味する。その点で、私たちと5年間ともに活動したAMDAクエッタ事務所が昨年末活動を終了したことで、またひとつアフガン難民と日本の支援者たちをつなぐパイプがなくなってしまった。残念だとしか言いようがない。今までの協力と実績に心から感謝しつつ、いずれ戻ってくることを期待したい。

 ところで、難民問題に関わっていると多くのことを学ぶ。それは難民問題が国際社会にかかわるマクロの問題から、個々の難民の生活や安全に関わるミクロの問題までを網羅せざるを得ないからだ。それもここ10年の間に問題の範囲がさらに拡大したことを痛感する。ジュネーブ本部から回ってくる様々な資料の内容は、実に多岐に渡る。大きいテーマでは例えば紛争解決・国内避難民・人口移動・国連人道機関の連携・安全対策・人道的介入など。新しいテーマでは環境問題・ジェンダー・HIV-AIDSなどがある。このようにUNHCRが多方面に手を広げるのとは逆に、今までUNHCRの独壇場だった難民問題に様々な団体や機関がそれぞれの立場から関わろうとしている。グローバル化の渦中、難民保護・援助も従来の枠組みではもはや解決できなくなってきているのだ。
 だが、難民個々人にとっては、UNHCRがその任務を無事遂行するために、複雑化する国際情勢のなかでどんなに苦労しているかなど埒外だろう。自分や家族が早く安心できる普通の生活に戻ることだけが喫緊の要事のはずだ。UNHCRが真価を問われるのも、難民が難民でなくなり、普通人に戻れるかどうかである。事務所で執務に追われ、会議に出ているだけだと、そういうことを忘れてしまう。キャンプを回るだけでもだめだ。この一年難民たちと向き合い、彼らの顔をじっくり見ながら話を聞くことで、久しぶりにミクロの部分の学習が出来たように思う。

 サラナン難民キャンプのサッカーグランドは、青年たちが自ら作った。いたって粗末なものだったが、そんなことはどうでも良かった。見晴るかすアフガニスタンの山々を背景に、若者や子供たちが裸足でのびのびとボールを追って走り回ったり、戯れたりしている姿を見ていると、暑さも忘れてほのぼのとした気持ちになった。
 そして、ひと時だが彼らと私たち、難民と援助者という垣根がなくなり、みんなひとつの目標、すなわちアフガニスタンに戻り、普通人になる日をめざす仲間だと感じた。同じ思いだったのか、女性スタッフ四人は、私が急かしても、なかなかその場を去ろうとしなかった。
(本稿は筆者個人の感想を記したものであり、UNHCRの公式見解を反映するものではありません。)

(註1) 近年国際社会からの資金援助の重心がアフガン国内に移り、また、他により緊急援助を必要とする国があるため、パキスタンの難民キャンプ事業が財政的に逼迫し、UNHCRとパキスタン政府は従来からの援助政策の見直しを余儀なくされた。その結果、現在三つの大きな政策を推進している。一つはアフガン帰還と定着促進のための自主帰還支援内容の改善。そのためには当然アフガン側に彼らをひき寄せる条件(家族の安全・安定した収入の確保等)の整備が必要である。第二点としてキャンプへの援助を、物資・サービスの提供から自助努力促進に変更しつつも、それによって受け入れ地域住民への負担が増えないような施策を実施する。各国政府のパ政府との二国間開発援助計画の中にキャンプ周辺地域の環境保全・復旧、難民と地域住民の共存のためのプログラムを取り込んでもらおう、という考えだ。そして、三つ目がアフガン人の長期滞在者を把握するために個別登録をパキスタン全国に亘って進め、登録難民には2009年までの滞在を許可し、その時点でその後の方針を見直す、というもの。どれ一つとっても簡単な仕事ではないが、個別登録については登録対象者240万人のうち216万人が登録を済ませた。パ政府にとってまさに快挙だったといえる。

 
アフガン難民支援医療保健活動を振り返って
 
元AMDAクエッタ事務所・医療調整員/医療アドバイザー 原口珠代

はじめに
 2006年10月、2001年1月から始まったパキスタン事業に、結核対策事業統括の引継ぎという、一つのピリオドがうたれた。私が、最初にパキスタン事業に従事したのは、2002年3月、大量のアフガン難民がパキスタンに流入してくる真っ只中だった。それから2004年、2005年、2006年と、この事業の閉鎖までの大きく変化し続けた流れに関わることができた。そこで、主な4つの保健医療事業について述べようと思う。

1 キャンプでのプライマリーヘルスケア事業

  2001年12月、UNHCRにより、新規(*1)にアフガン難民キャンプが次々と設立され、2002年1月、アムダは、1つの新規難民キャンプ全体の保健医療担当団体となった。パキスタン人とアフガン人による混合医療チームが結成され、キャンプにはテントを使って簡易診療所を設置。アムダ事務所とその難民キャンプまでは、車で片道1時間半。それから365日休日なしのキャンプ通いが、キャンプ閉鎖まで約2年8ヶ月続いたのだった。
 1つのキャンプ全体の保健医療担当、それは一つの国家(難民キャンプ)の保健省(厚生省)の役割を担うと思っていただいたらよいかと思う。簡易診療所(診療と治療)の役目だけではない。予防接種の促進、母子保健の指導、病気の予防教育啓蒙、感染症(マラリア・結核・HIV/AIDS・その他コレラなど)の対策等はもちろんのこと、保健統計や難民衛生の動向の報告、出生登録証明の事務処理まで関わることになる。保健医療で問題が起こると、伝達・報告はアムダにされ、私達は責任を持って対策に応じていかなければならないのだ。
 2003年には、さらに2つの難民キャンプを請け負うことになり、アムダは、ここで計3つの保健省役を務めたことになる。
 最初に、何より苦労したのは、女性スタッフ、特に女性医師の確保だった。パキスタン、アフガニスタンはイスラム国家である。イスラムでは、女性は常に守られなければならない存在であって、会社に入って働くことさえ家族に許してもらえない場合が多い。ましてや、町から一時間半かかる難民キャンプで、毎日仕事をするとなると、さらに厳しくなる。
しかし、文化・宗教的に女性患者は、女性医師に診てもらうのが基本となっているイスラム圏では、どうしても女性医師の存在は欠かせなかった。アムダは、何よりも女性医師確保を優先し、女性医師を初期から雇用、診療所を運営した時には、他の支援団体、UNHCRから高く評価を受けることとなった。
 初めの頃はテントのため、真夏には47度にもなった。ある時は、嫌がらせでテントに火をつけられたこともあった。薬欲しさに来る日も来る日も病人のふりをしてくる難民を、心で舌打ちしつつ、笑顔で諭した忍耐の日々。それでも、がんばろうと思わせてくれたのは、アムダ現地スタッフの協力して働く姿と難民達の私達を受け入れてくれる素朴な姿だった。
 2004年8月、自主帰還促進事業が開始され、新規キャンプも整理統合されることになり、難民達は大きな不安と期待を抱えつつ、アフガニスタンへ向かいはじめた。このため、アムダの年中無休だった診療所も同時に終了した。
(*1)パキスタンには、ソ連侵攻時代に逃げてきた難民が暮らす旧アフガン難民キャンプがある。
2 リフェーラルシステム事業
 
 リフェーラルシステムとは、一体何だろう。普通風邪をひくと、近くの医院やクリニックに行くかと思う。風邪を引いた、さぁ大学病院に行こうとはまず思わないであろう。公共医療機関には、病気の重症度に合わせた機能を有することで役割分担があり、緊急・高度医療にスムーズに対応するためのシステムがある。
 パキスタンの公共医療機関では、簡易診療所、郡病院、州病院というリフェーラルシステムがある。簡易診療所で診断・治療ができない患者は、郡病院に照会され、そこでできなければ、州病院に行くというしくみだ。
 難民キャンプでは、一つのキャンプに対し一つの支援団体(NGO等)が保健医療全体の担当を受け持っている。難民キャンプ内の診療所で対応できない重症患者が発生した場合、担当団体は各自それぞれの責任で郡病院または州病院に搬送しなければならない。しかし、それぞれの団体により搬送する基準、病院の選定もバラバラで、病院側の人材不足により搬送された患者まで目が届かないという事態を招くことが多々ある。
 当初、新規難民キャンプでも、同じ問題が起こっており、毎週行われる全体保健医療会議の議題の主役となっていた。そこで、業を煮やしたUNHCRは、もっと人材や資金を効率よく且つ適切に実施されるために、アムダにバロチスタン州内全新規難民キャンプのリフェーラルシステムの統括を委託した。それぞれ距離的にも離れた難民キャンプで、また異なる団体をまとめ、一つのシステムを築くのは容易なことではない。ある意味、アムダにとっても大きなチャレンジであった。
 UNHCRの保健担当とまず搬送されるべき患者の基準選定やシステムの構想案をまとめる。そして、その案を元に各キャンプの保健医療を担当している団体と何度も何度も納得するまで検討する。しかし、納得してもいざ実践すると、基準外の患者が送られてくる。なぜかと聞くと、患者に自分を州病院に診せなければ痛い目にあわすと脅されたとキャンプで働く現地医師に泣きつかれたこともあった。
 このような統括事業は、迂闊にそれぞれのキャンプの医師達に直接な指導や手は出せないところが難しい。彼らは、それぞれ他の保健医療団体に雇用されたスタッフであり、アムダが他団体の医療活動を干渉していると取られる可能性もある。常に、その管轄の保健医療団体の代表を通し、我慢強く説明し、理解してもらうことが大きな鍵であった。この事業は、UNHCRから高い評価を受け、2004年9月、新規難民キャンプの閉鎖と共に終了した。さらに、この経験を活かし、アムダは20年以上続いている旧アフガン難民キャンプを対象にこの事業を継続し、アフガン難民の自主帰還の進行に伴い、2006年3月、リフェーラルシステム事業を終了することとなった。ここで、大きな課題となったのは、簡易診療所と州病院の中間地点として核となる郡病院の設備・機能の不十分なことであった。保健行政システムレベルの支援と草の根レベルの支援が絡み合ってこそ、支援の継続性が生まれることを痛感させられた事業でもあった。
3 結核対策事業
 2003年8月、アムダはUNHCRより、全新規難民キャンプの結核プログラム(予防と治療を含めた)の統括の委託を受けることになった。リフェーラルシステムに続いて、また難しい事業を引き受けることになった。アムダの支援活動に対する高い信頼の賜物とはいえ、悪いくじを引いた気分だった。
 簡単に述べると、難民キャンプで各保健医療団体が結核プログラムをきちんと実施するための監督役である。結核プログラムのためのスタッフ技術養成および指導、全キャンプの結核治療薬の在庫管理、専門家による定期的なモニタリングとフォローアップ、結核データーの整理・報告・フィードバックが主な活動内容となる。
 結核は、一人患者がいると、一年で一人から十人へ感染させてしまうと言われている。世界的にも重要課題として対策がとられている。それだけに、結核プログラムの成果や結果に対する外部の評価はとても厳しい。難民キャンプでの状況が悪ければ、当のプログラム実施者ではなく、監督役であるアムダの責務が問われるのである。難民キャンプ内の保健医療事業は、プライマリーヘルスケア事業で述べたとおり、結核プログラム以外にも様々なプログラムを実施しなくてはならない。
その中で、結核はどうしても優先順位が低くなってしまうのだ。これも、ひたすら足を運び、アメとムチを使い、各保健医療団体に説明、重要性を理解してもらい、やる気を出してもらうしかないのだ。結核対策プログラムは、何と言っても発見率と治癒率が大きな鍵となる。それには、診療所スタッフの地道なフィールド活動というかなりの労力が必要となる。ただでさえ、無関心で、仕事をしないよう努力している他団体の現地スタッフにやる気と活動を促すことは容易なことではない。ひたすら忍耐である。
 2006年11月、アムダは結核プログラム統括を終了することとなった。プログラムをそれぞれの保健医療団体に引き継ぐことになったのだが、最終決定がなかなか決まらず、終了までのスケジュールが詰まってしまった。2003年から監督役をしていたためか、各団体のアムダに対する依存性が大きくなっており、受け入れ準備(意識も含め)に時間を要した。先を見据えた援助に対する関わりのあり方にも課題を残した。
4 自主帰還難民センター医療支援事業
 2004年より、難民の自主的な帰還を促進する活動が開始された。難民のチェックポイントとなる自主帰還難民センター(以下、VRC)に、アムダは2004年の3月から医療チームを派遣し、帰還難民の健康管理を行うことになった。帰還難民は、新規難民ばかりではない。20年以上もパキスタンに住んでいた旧難民も、自主帰還を推進されバスで一晩かけてVRCへやってくる。彼らは、ここで帰還難民という登録をされ、アイリスチェック(虹彩登録)を受ける。人間の瞳は、指紋と全く同様でみんな人それぞれ異なっている。つまり、個人識別判定として使えるのだ。この自主帰還に伴い、UNHCRでは帰還のための資金・物資援助を行っているため、難民によってはこの資金欲しさに舞い戻ってきては、帰還難民を装う場合があるのだ。それを、防止するのが目的だ。
 登録の順番を待っている間に、旅の途中で体調を崩した難民達が、アムダが開設している診療所にやってくる。特に、多いのが女性の車酔いである。車に乗った経験がない女性は多く、この長旅でかなり衰弱してしまうのである。
 最初は、診療目的で活動していたのだが、下痢や脱水症状でやってくる難民に対応している医療チームから、彼らには保健啓蒙が必要だ、どうかVRCで保健教育をやらせて欲しいという提案があがってきた。彼らが戻るアフガニスタンは、復興支援の段階で、保健医療システムは不十分であることは言うまでもない。そんな彼らに、少しでも自分達自身で健康を守る手段を教えてあげるべきだという意見に、私達も、さらにVRCを統括するUNHCRも同意し、2005年中期からそのための予算と人材が加えられた。現場を知っている現地スタッフから出た案件だった。現地スタッフの成長を垣間見ることができた瞬間は、人材育成を心がけてきた私達にとってもうれしい限りであった。
最後に
 2006年5月、私は、たまたまアムダの最初に受け持った新規難民キャンプ跡地に行く機会があった。小さいマーケットや8,000〜9,000人と難民がひしめき合っていた場所は、うそのように人影もなく、ロバと野犬がどこからともなく姿を現しては消えていった。でも、想い出と活動を通していろんな人から教えてもらったものは、経験として私の中にしっかり刻みこまれている。失敗は次の予防に、成果はさらに次に活かして、人間としてできることをやりたいと思う。
そのときのクエッタ
 
元AMDAクェッタ事務所医療調整員 工藤ちひろ
 私が看護師/医療調整員として、参加させていただいたのは活動初期の2001年 12月から2002 年2 月、2003年 1月から 10月です。約5年にわたるプロジェクトを感慨深く思い返すととともに、この活動への参加の機会を与えてくださったことに改めて感謝しております。
<難民キャンプができるまで>
 2001年 9月 11日、東京の病院から仕事を終えて自宅にもどり、テレビをつけるとツインタワーから煙がでていました。
 よくわからないながらも何か大変なことが起きていて、これからもっと大変なことになるにちがいないという不安感、助けを求めている人たちに自分は何もできないんだという無力感を覚えています。
だからその3ヵ月後にAMDAから、パキスタン派遣の医療職募集がきたとき、できることは何でもやってみようと思ったのでした。
 そして2001年12月なかば、私がクエッタに到着するとパキスタンはラマダンの最中、初代調整員の谷合さんは飄々と昼食抜きで走り回っていました。私もくっついて市内の病院の視察へ。AMDAの活動もクエッタ市内のジャムエシャーファ病院を拠点にした支援活動から、今後どう展開していくか模索している段階でした。しかしその後すぐに、続々と集まってくるアフガニスタン難民に対して、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が難民キャンプを作ることを決め、そしてAMDAもその活動の一翼を担うことになりました。
クエッタ市街から、道だか平地だかわからないところを車で走ること2時間、廃墟のような家の残骸と井戸がある場所に辿りつきます。最初、ここに数万人の人が移り住むと聞いたときは半信半疑でした。こんななにもない場所で本当に生活していけるのか、と思ったのです。
 難民キャンプ設置にあたり、AMDAに任されたのは、登録と検診、子供たちの栄養状態測定、麻疹の予防接種です。物資の配給やトイレの設置などは他の組織が担当します。他の組織と連携しながら、数日のうちにスタッフを集め、車を手配し、準備を整えなければなりません。事業統括の小西さんも日本から駆けつけてくれ、なんとか期日に間に合わせることができました。
 そして、なんにもない場所に次々と物資が運び込まれ、難民を乗せた大型バス、彼らの家財と家畜(ヤギがトラックの天辺で風をきって到着!)を乗せた大型トラックが到着し、わずか数日で辺りの風景は一変しました。
 数万の人の移動というのはそれだけでも大変で、けしてスムーズに行われたわけではありません。私たちの受け入れ作業は単純なのですが、毎日なんらかのトラブルが起こります。到着するはずの難民さんが来なくて待ちぼうけを食わされたことも、逆に大慌てで仕事をしなければならないこともありました。到着が遅れた人たちのために、灯りもなく暗くなる中、皆で必死に目を凝らしてワクチンを打ったり、注射ぎらいで逃げ出す子供を追いかけて走って行ったり、まだ全てにおいて不慣れで混乱もあった中、現地スタッフがとにかく頑張ってくれました。
<最初の出産>
 そもそも、ラティファバド難民キャンプはその立地条件(病院のあるクエッタまで約2時間)から、妊婦と病人は市内で保護することになっていました。しかし考えてみれば大家族でまとまって避難している人達に妊婦だけ町に残してくる、というのは無理な注文で、想定外の出産が連日のように準備のない私たち医療チームにふりかかってきました。
 最初の出産は診療所のテントから歩いて5分のご近所さんです。朝から陣痛が始まりましたが、なかなか出てこない。チームは安全のためにも暗くなる前に町に帰らなくてはいけないのに、赤ちゃんはこちらの希望にはあわせてくれません。
 日もすっかり暮れて、異常分娩なのでは、と心配になって来たころ、やっとでてきてくれました。かわいい小さな女の子です。
 帰路は暗い中、スタッフも疲れたでしょうが、赤ちゃん誕生を笑顔で喜んでくれました。あの子ももう5歳になっているはずです。難民キャンプで皆に祝福されて産まれてきたことをいつかお母さんから聞くかもしれません。

 難民キャンプは暑すぎるか寒すぎるかどちらかで、周囲は岩と砂だけ、どこからみても過酷な環境なのですが、不思議と暗いイメージがないのです。
 子供たちが元気にそこら中を走り回って、いたずらして、毎日赤ちゃんが産まれてくる。砂から日干しレンガを作って家を建てる。少しでも余分なものがあれば並べて売って、商売をする。生活へのエネルギーが感じられる場所でもありました。

<難民キャンプ生活の影>
 キャンプの生活では制約も多く、仕事も見つからない先の見えない中、麻薬に手を出してしまう青年がいてもおかしくはありません。
 「なんとかして欲しい」という相談を受けて出向いてみると、鎖で縛られて父親に説教されている20歳台の青年がいました。禁断症状で暴れて手がつけられないとのことで、家族も困り果てていました。仕方なく入院させることにして、救急車で連れて行ったけれど、病院に到着するやいなや逃げ出してしまい、しかもわずかな隙に救急車のカーステレオを抜いてもっていかれたというのです。
 数ヵ月後にまた家族に保護され、今度こそと薬物を抜くための入院生活を経て、働けるところまで回復しました。診療所テントまでお詫びに来て、まるで別人のようないきいきとした表情に、最初誰だかわからないくらいでした。今はどうしているのでしょう。
 難民生活が長くなると将来の設計も建てられません。農民が多かったラティファバドキャンプでは、春の種まきの前に帰らないとその年の生活ができない、と言っていました。無事に帰還した現在、春にはきっと自分たちの農地で忙しく仕事をしていることでしょう。
<女性のストレス>
 「ちょっと聞いてよ」とある日、憤慨したスタッフがやってきました。若い女性患者の一人があちらこちらの痛みを訴えるのでストレスが原因では、と考えて別室でゆっくり話しをきいたところ、40歳以上も年上の男性と無理やり結婚させられた、と泣きながら訴えたとのこと。さすがに体裁が悪いと思ったのか、夫にあたる男性は付き添ってきた際には父親だと名乗っていたのです。
 難民キャンプのコミュニティーの中で、女性の社会的な立場は弱く、独身女性の恋愛や婚前交渉はご法度でした。父親の言う通りに結婚し、それに金銭のやり取りが伴うことも多いと聞きました。
 他にもやはり結婚を決められた女性が、焼身自殺を図ろうとして、火傷を負ったこともありました。幸い跡も目立たず、結婚話も白紙にもどったものの、そのような意思表示の仕方しかないのか、と悲しくなりました。
 難民キャンプでは、頭からすっぽり全身を覆うブルカをかぶっている女性も多く、女性用の診察室は基本的に男子禁制で、女性医師が診察をします。AMDAのチームは女性スタッフの割合が多く、患者数も女性のほうが多かったのです。女性がひとりで生きていくことが難しい社会の中、知らない土地で今後のこともわからない、難民キャンプの避難生活がストレスになったのは、女性に負担が大きかったのでしょう。女性だけの待合室でブルカをとって、女性スタッフに話を聞いてもらう、厳しい生活の中で数少ない気が許せる場所になっていたにちがいありません。
<チャマンという町>
 2003年、アフガニスタン国境沿いの町、チャマン。AMDAはこの町でも保健医療活動を開始しました。
もともとこの町は静かなところで、人口も少ない場所だったそうです。それが難民流入で、一気に人口が増えて、様々な援助団体もきて、町の様子も一変したとのこと。この変化を嘆く人、乗じてひともうけ企む人など、町の人の反応も様々、町は落ち着かず、治安も悪化しました。
 チャマン郡立病院の医師でさえ、「難民はお金も払わないし、要求ばかり並び立てるから診察したくない」という人もいて、人道援助とか医療倫理とか、理念を並べることはできますが、実際にはやはり自分の生活が一番大事。
 難民問題は受け入れる側にとっても深刻な影響を及ぼします。チャマンの町の人達にとってはきれいごとでは済まされない問題だったに違いありません。
<モスク>
 日本でイスラムと聞くと厳しいイメージがあったけれど、パキスタンで私の接したイスラムは、祈りと感謝の心を大事にする素朴な宗教でした。
キャンプから町への途中小さな無人のモスクがあって、帰路に一旦そこで車を止めてお祈り休憩をいれます。祈る人もいれば、ただ体を伸ばすだけの人もいます。
 夕暮れの砂漠のなか、私たち以外は誰もいなくて、静かに祈る人、語り合う人、水を飲む人、思い思いに休みをとる。一日に何回か、祈る前に手足と口をきれいにして、体をのばし、静かな時間を持つことは心身の健康にとても良さそうです。

 今日本でパソコンの前に何時間もぶっ通しで座っていると、あの静かな時間がしみじみと懐かしくなります。

 いつかアフガニスタンをゆっくり旅して、あちらこちら見て回れる日が来ることを祈っています。
難民キャンプで皆が恋しがっていたのはきれいな花とか、地元のおいしい料理とか、別れ別れになった友達とか、そんなものだったから、石油の利権や政治の確執なんて消えてなくなってしまえばいいのにとずっと思っていました。

<終わりに>
 当時、なにが必要ですか、という私の問いに対して「どの援助団体も報道機関も、最初集まってもすぐに帰ってしまう、なによりも継続してくれることが必要なのだ」と、キャンプの長老が語っていたことをかみ締めながら、AMDAが5年の長期間、現場の状況に応じて支援内容を変えながら活動を続けてこられたことに、あらためて敬意を表します。ありがとうございました。
 
 


 
 

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