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スリランカ ワウニア県基礎保健サービス復興支援事業
2年間の活動を終えて
AMDAスリランカ 添川 詠子(事業統括)

 2004年5月から2006年5月までの2年間、JICA(独立行政法人国際協力機構)の協力を受け、スリランカ国ワウニア県において、「基礎保健サービス復興支援事業」を実施してきました。過去のAMDAジャーナルでも事業の紹介をさせて頂きましたが、本号ではこの2年の活動の軌跡を私自身の感想も含め、ご紹介したいと思います。

事業の背景

 スリランカはインドの斜め下に位置する人口1,900万人の小さな島国です。まわりをインド洋に囲まれるこの国には、主に3つの民族が共存しています。シンハラ語を話すシンハラ人、タミル語を話すタミル人、同じくタミル語を話すが、中東方面から移住してきたといわれるムーア人です。この国では自らを先住民と見なすシンハラ人と、インドからの移住民が多数を占めるタミル人の間で民族闘争が100年以上続いていました。その中でも、1983年に勃発した、タミルイーラム解放の虎(LTTE)という反政府軍とスリランカ政府の内戦は、20年間にもわたりすべてのスリランカ国民を苦しめてきました。2002年2月、このLTTEと政府側で停戦協定が結ばれ、内戦地であったスリランカ北東部において、復興支援事業が実施されるようになりました。長期の内戦の影響で多くの学校、病院、公共施設などが破壊され、道路や公共交通も大きな影響を受けました。
 そんな中、AMDAは母子保健医療システム改善のために復興支援事業を立ち上げました。
 停戦直後より案を練り、北東部のニーズ調査を行い、内戦の影響を強く受けたワウニア県をその実施地として選び、県保健局と協力し、最もニーズの高い地域母子保健の復興に的を絞り、事業の計画を立てました。この県には、シンハラ、タミル、ムーアと全民族が混在しています。JICAの協力を得、事業開始に結びつけられたのは2004年の5月でした。


内戦で壊された建物


込み入った総合病院
(床に寝かされている妊婦)
スリランカの地域保健医療

 スリランカの地域保健医療というのは、日本の地域保健医療と類似点が多く見られます。日本の「保健所」を想像して頂けると、理解しやすいと思います。保健所長は医師であり、環境衛生監視員により地域環境衛生や食品衛生が保たれ、保健師により健康診断、子供の予防接種、家庭訪問などが行われているのが日本のシステムです。
 スリランカでも、このシステムは同じです。環境衛生に携わるものは環境衛生管理士と呼ばれ、飲料水の確保、感染症の予防、食品衛生などに努めています。そして、母子・老人保健には、保健師ではなく、助産師が配置され、健診や予防接種、家庭訪問を担当しています。これは施設分娩が難しかった頃、地域を担当する助産師が、いざというときには出産の手助けをする、ということから始まっています。
 日本と大きく違う点は、日本では健診をうけに人々が保健所に集まってきますが、スリランカでは人々の意識や、交通の便の都合上、まだそこまでは望めず、助産師や医師がそれぞれの村に出向いて予防接種や健診を行っています。要するに、保健所を起点とし、各村々へ移動診療に出向いているのです。予防活動だけでなく、一時的な医療活動も保健所が担当します。医師、助産師が地域を訪問し、健診、予防接種、予防教育、治療のすべてをこなします。

地域住民への質問調査


保健ボランテイアによる家庭訪問
事業の成り立ち

 このスリランカの地域保健医療を担う重要な保健所の機能が、スリランカ北東部においては、内戦によりほとんど機能していない状態でした。LTTE支配地域には保健所職員といえ政府の職員が立ち入ることは難しく、また、交通も制限されおり、公共交通機関も機能していないため、街の中心部以外の場所に行くのはとても大変でした。助産師や環境衛生管理士の数も定員の3分の1もしくは4分の1以下しかいませんでした。健診も限られた場所でしか行うことができず、また、妊産婦の健康を守る上で大変重要とされていた訪問指導もほとんど行われておらず、村の中ではほとんど医療に関して教育を受けたことのない保健ボランティアがかろうじて村の妊婦の数を把握し、健診に行くように指導している程度でした。
 また、ワウニア県では出産のための病院や施設が内戦により破壊されてしまい、出産できる場所がないために、家庭分娩が多く、出血や感染による母子の死亡が多く見られました。加えて、街の中心部に位置する総合病院が唯一の安全なお産ができる場所であり、その総合病院への一極集中が起こっていました。1,2名の医師と7名ほどの助産師が交代で月に300人以上の出産の介助を行っていたのです。
 この状況を立て直し、出産の施設を増やし、県内に安全なお産ができるような施設とそのシステムを作ること、また、既存の助産師の活動を改善し、地域保健医療システムをより活発化していくことが、停戦後のワウニア県での最も高いニーズであると県保健局とアムダは結論づけ、基礎保健サービス復興支援事業が計画されました。アムダ独自の資金力だけでは難しい事業であったため、JICAの協力を仰ぎ、パートナーシップ事業として実施することができることになりました。
「ワウニア県基礎保健サービス復興支援事業」

 この事業は大きく二つの部分に分けられます。一つは保健インフラの整備で、もう一つは人材育成です。
 保健インフラの整備とは、県の保健政策に沿って、必要な医療施設を建設します。AMDAはその一つである産科病棟を担当し、プーバラサンクラムという村に新しく産科病棟を建設しました。この保健インフラの整備には、他の団体も協力しています。世界銀行や、アジア開発銀行などが建設のための資金を県保健局に提供してくれました。ただ、他団体においては建物を建設するのみでありますが、その建物を有効利用できるように設備投資したり、人々に宣伝を行ったりすることはAMDAが引き受けました。AMDAはそれら地方病院産科病棟に医療器材を供給すると共に、小冊子等を作成し、新しい病院の紹介を各地で行いました。新設された病院は医師の配置がおくれたり、機材が整っていなかったりで、なかなか開院されず、地域住民の中には「単に建物が建っているだけ」、という認識を持った人が多く見られました。その地域病院の利用率を上げていくためには、病院のケアの質の向上を通し評判を高めていくこと、また、できるだけ多くの人に知ってもらうため、宣伝活動を行っていくこと、がその戦略としてあげられました。AMDAは地域の助産師やボランティアと協力をし、地域病院の設備とその利点について小冊子を用いて宣伝を続けました。
 もう一方の人材育成とは、地域保健医療を司る医療関係者の能力向上を目指したプログラムです。主に地域で働く助産師、また、新設された地域病院に配属された医師、助産師らに対して研修を行うことにより、その能力向上を図りました。またワークショップ等を開催し、彼・彼女らの仕事に対する意識の向上に努めました。
 この人材育成は、地元のリソースを最大限に利用し、できるだけ地元のニーズに沿って実際の仕事にすぐに役立つものを企画し実施してきました。また、研修受講者が、次の段階では講師となり授業をすることによってより学びを深めるという研修方法を取り入れ、これが大きな成果を生みました。
 研修事業はが始める前にすでにいくつかの団体により行われていました。内戦直後よりユニセフ等の国際機関が多くの研修事業を引き受け、助産師等を対象に実施してきました。しかし、県保健局によれば、それらの効果は薄いものでした。こういった国際機関による研修は、ややレベルが高く、ほぼすべての研修が英語で行われ、通訳を通して受講者に伝えられていました。また、研修後のフォローアップも行われないため、「やりっぱなし」の研修がほとんどでした。

助産婦へのワークショップを行う筆者


助産婦トレーニング
(エコートレーニング)


助産婦トレーニング
(臨床実習)
  その点を問題視したAMDAと県保健局では、タミル語・シンハラ語で実施する研修を組み、また、地元の人材を講師として使うことを心がけました。特に助産師の研修においては、地元医師から研修を受けることにより、医師・助産師の連携を深めることを一つの目標とし、また、その研修をうけた助産師が、次は保健ボランティアを教えることにより、助産師・ボランティア間の連携を深めるということも目標としました。
 本事業で行われた研修の目的は、助産師や医師の一人一人の能力を高め、医療従事者間の連携を強化することですが、最終目標は、研修を受けた人々が、その成果を地域住民に裨益させていくことです。研修により高められた知識や技術を最大限に利用し、地域で治療や予防活動として実践する、ということです。そのため、研修のフォローアップに特に力を入れ、数々の地域活動にAMDAも参加してきました。AMDAは直接地域活動は行わず、助産師やボランティアの活動を支え、その活動の結果を話し合い、次の戦略を練ることに協力してきました。モニタリングや評価を県保健局に伝えるなどし、助産師や医師が自発的に活動していける仕組みを作ってきました。

事業の成果

 上述の活動が功を奏し、助産師による地域活動は活発化し、特に地域の周産期女性の母子保健に対する知識の向上が見られました。また、彼女らの行動にも変化が表れ、より予防的な行動をとるようになりました(当団体質問調査より)。地域での輸送、搬送システムも改善し、ワウニア県の周産期死亡、乳幼児死亡共に減少が見られました。地域での家庭分娩は激減し、地域病院の利用率の上昇、総合病院の一極集中も事業開始前と比較し、10%の減少がみられました。
 もちろん、まだまだ問題点はたくさんあります。基礎的な知識は向上したとしても、改善すべき点は多々あります。妊娠の危険兆候がわかるようになったとしても、それを予防する方法を身につけ、実践していかねばなりません。また栄養に関する知識を得ても、実際にそれらを接種しなければ意味がありません。課題はまだまだありますが、事業開始時期に設定した、地域住民のうけられる保健サービスが拡充すること、周産期女性の基礎的な妊娠出産に関する知識が向上すること、等の目標は概ね達成されました。

事業実施における困難・・・

 事業を実施していて、一番難しいと感じたことは、助産師や、地域病院で働く医師の意識改革です。彼・彼女らの多くは「一生懸命働いたところで、誰にも評価されない。たくさん働くだけ損だ」という考えを持っていました。また、「村の人たちは無知だから、一生懸命教えたところでたいした結果は出ない」という考え方も根強く残っていました。助産師や地方病院の医師らの待遇はけっしてよいものとは言えず、また、地方病院医師においては、ワウニア県で働くことは、ある意味「島流し」的にとらえており、仕事に対する意欲は低いものでした。配置された直後より次の就職活動を始め、半年もたたないうちに他県へ移動してしまった医師が6割を超えます。
 この意識を変えるために私たちがとった活動は、地域住民の声を伝えることでした。質問調査や統計調査を行い、その結果を助産師や地方病院医師らに伝えることにより、問題点を明確にしていくと共に、改善された点を大きく取り上げ、助産師らの働きがいかに地域住民の意識や知識に影響を与えるかということを伝えるという点に力を入れました。また、各地域で集会を行い、保健ボランティアと助産師でその地域の問題点を話し合い、それを解決するための活動を実施し、その評価を行い、結果を県保健局に報告する、という活動をしてきました。「誰かにみられている、誰かに評価されている、私の活動が地域の人や保健局の上部の人たちに伝わっている」そんな気持ちをそれぞれの医療従事者にもってもらい、意識の変革に努めました。
 徐々に助産師や医師らの意識は変わってきました。自分たちの行動がどれだけの人たちに影響を与えるか、教えることや、実演することでどれだけの人がそれを理解し、実施してくれるかを、身をもって感じることができるようになったのだと思います。もちろん、全員が全員、変わったという訳ではありません。しかし、確実に事業実施前との違いを見ることができます。
この意識の変化と共に、活動にも変化が見られました。職務に対する充実感を見いだすことができてきたのだと思います。そしてそれは地域保健医療の向上へと結びついて行きました。
 もう一点、上述のこととは少し毛色が違いますが、難しいと感じた点があります。
それは、停戦中であるとはいいながらも、各地で続く小競り合い、爆弾の投げ込みや銃撃戦が行われる中、どのように事業を実施していくか、という点です。停戦中とはいえ、北東部では政府軍とLTTE軍のお互いの挑発行為が続いていました。仕掛け爆弾や銃撃戦、両者が両者を責め、お互いの立場を悪くしようという試みが続いていました。時にそれは活発化し、何日も続けて起こることもありました。また、縄張り争いのような殺し合い、資金集めのための恐喝、強盗行為なども頻繁に見られました。外国人や外国のNGOが襲われる可能性はほとんどありませんが、日常起こる事件にたまたま居合わせて巻き込まれる、という可能性は否定できません。戦争や内戦など経験したことのない私にとって、これらの事件に対しての行動予測は大変難しいものでありました。状況が悪化するのか、それとも沈静化に向かうのか、昨日は爆弾事件が多発したが、今日はどうなるのか・・・
 これらの状況と共に生きてきた地元の方々は、特に怯えることもなく、「大丈夫よ、何とかなるわ」といって毎日の業務を続けていました。しかし、スタッフや関係者を危険に巻き込むようなことは絶対に避けなければなりません。自分たちや関係者の安全を確保しつつ、事業を遅延なく進めていくための判断は大変難しく、頭を痛める毎日があったのも事実です。

2年間を振り返って

 この2年間を通し、事業の成果を出したいと、一生懸命がんばってきました。反面、事業を実施しながら、常に「本当にこれでいいのだろうか」という疑問も持ち続けてきました。私たちにとっては2年間ですが、地元の人々にとってそれは長く続く毎日の中のほんのひとときでしかありません。私たちが持つ「この2年間での成果を」という考えと、地元の人々の事業に対する取り組みかたは全く違ったものです。
 県保健局側にとっては、AMDAは特別な存在でもありますが、変わりのきく単なるひとつのNGOでもあると思います。私たちとしては「AMDAでなくてはできないこと」「AMDAだからできること」という独自性を活かして事業を進めてきたつもりです。しかし、その思いは単に私たちだけのものであって、それを県保健局側、スリランカ人側に押しつけることはできません。彼らにとっては結果さえよければ、誰であろうと、何であろうと大差がないわけです。
 この事業における日本人の、そしてAMDAの介入は、現地の人々にとって有益なものであるのか、それともそうではないのか、という疑問を常に頭の中に抱えていました。2年間やってきて思うことは、当たり前のことのようですが、やはりそのどちらも存在する、ということです。私たちの介入が、プラスに働くこともあれば、マイナスに働くことももちろんあるのだと思います。しかし、結果的にそれが以前の状態と比べ、少しでも改善の方向に向かっているとしたら、それはやはり「意味あること」であるのではないかと感じています。そしてこのAMDAの2年間の活動により、改善を見たものは、少なくともマイナスに働いたものよりは多くあると感じています。

 どこの国でもどんな人々も「健康になりたい、健康でいたい」という気持ちは変わらず持っていると思います。治せる病気を治すこと、死ななくてもいい病気で死なないこと、飢えをなくすこと、それらに向かって活動していくことは、やはり「意味あること」だと思っています。
 一つの事業が終わりましたが、それはワウニア県の保健システムへのニーズすべてが満たされたという訳ではありません。まだワウニア県では多くの人が問題を抱え、より充実した保健サービスが望まれています。AMDAはこの事業で作り上げたものをよりよい方向に進めていけるよう、県保健局と協力しながら、次なる事業を実施していく予定です。
 少しでも多くのスリランカの人々が「健康である」という恩恵に携われるような環境作りの手助けを、AMDAを支えてくださっているみなさまの協力と共に、実施していきたいと考えています。

 


 

 

 

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