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青山の被災地−パキスタン北部地震緊急救援活動
  AMDA本部職員   佐伯 美苗
 2005年10月8日、その日わたしは2ヶ月におよぶパキスタン出張をどうにか終えようとしていました。M6.8(当初政府発表)、被害はインド、パキスタン、アフガニスタンにまたがる…第一報以降も限られた情報の中で「一大事になる」との危機感が募ってきました。被災は山岳地帯で広範囲にわたり、しかも通常なら外国NGOがおいそれと入れる地域ではないため、そもそも支援を必要としている人たちのところに行き着けるのか、という不安を抱きつつ、そろそろと準備を整え始めました。
 まず「ERネットワーク」登録者への呼びかけを行ない、総領事館など国内関係機関との情報交換、関係者の安否確認、刻々と移り変わる被災地の情報、被災地で連携可能な団体の情報確認、予定はすべてキャンセル、現金の確認、留守中の業務指示、国内航空便の確認…と、翌日の明け方までにクェッタ事務所の業務を一時凍結する一方、緊急支援の体制を整えていきました。
 クェッタ事務所のあるバローチスタン州と今回の被災地は、1000km程度離れています。かたや沙漠、かたや山岳地帯、その距離の故に当初州内の関係機関のほとんどは他人事として受け止めていました。しかし、さすがにアフガニスタン支援、イラク避難民救援、イラン地震救援と、緊急救援の拠点として本部の裏方を務めてきたクェッタ事務所です。休日にも関わらず、スタッフは準備を着々とすすめていきました。

マンセラ郡のはずれの村でイランからの支援チーム(左)と情報交換を行なう。後にこのイランチームと、重症者の搬送先として協力関係を結ぶ。

 さて、発災翌日の便で首都に移動し、各地の被災状況や支援の需要を調べたり、各援助機関の方針や活動地などを確認するとともに、必要な物品を揃え始めました。
 10日には活動地に予定したマンセラ(Mansehra)とバラコート(Balakot)を目指して状況調査を重ね、医療チームを受け入れたいという村、ブラールコットまたはバラーコット(Brarkot)に行き着いたのは、ようやく10月12日のことでした。


 バラーコットは標高1200m程度でしょうか、すでに朝晩の息は白く、峨峨たる山々の頂きを遠くに望む小さな村でした。連絡と物資調達の拠点として選んだアボッタバド(Abbottabad)から3時間程度、しかし最も近い町はじつはカシミール側のムザッファラバド(Muzzaffarabad)で、片道30分程度で行きつけるところでした。
 青く澄んだ空は高く、川のせせらぎが小さく聞こえ、周りを囲む山は緑に覆われ、家の庭、畑も緑、その中でヤギやウシがもそもそと草を食んでいます。その中で大半の家屋がぐしゃりとつぶれているのは、一種異様な光景です。

 地元の人によると、古い家屋は比較的頑丈にできているのですが、最近は原料費の高騰のため、コンクリート製のブロックを積んだだけの安易な建築が増え、それが今回の地震でひとたまりもなかったということでした。コンクリートのかたまりが人間の上に落ちてきたわけです。食器や農具といっしょに。私たちは声もなく、多くの人の上になだれをうったコンクリートブロックの残骸を、今やのどやかに冬の日を浴びている残骸を、見つめていました。
 この村にはすでにパキスタンの他の町から送られてきた医療チームが診療を開始していたのですが、どうかこの村で診療してほしいと、村の男性たちから意外にも懇請を受けました。
理由は、AMDAが女性の医師を連れてきていたからです。女性たちに女性の医師による診察を受けさせたいのは、じつは女性自身よりも彼女らの夫や父や兄弟なのです。 
 そのようなわけで、初日から女性の診察室は盛況でした。男性用診察ブースも多くの男性患者で溢れ、3人の医師だけではなく、補助するわれわれ調整員もてんてこまいになりました。
この村は、ムザッファラバドに近いために、男たちの大半はそこに働きに出かけています。ムザッファラバドの学校に通っている子どもも多く、住民の中で死傷者はかなりの数にのぼるはずなのですが、ムザッファラバド側で被災者にカウントされ、手当を受けたために、それが正確に把握できたのは、地震から10日近く経ってからのことでした。  
 ある男の子は、ムザッファラバドの学校に通っていて被災しました。教室にいて崩れた壁の下敷きになりかけたそうです。まだ痛むのか、多くの級友を亡くしたからなのか、この少年は黒目がちの瞳をずっと伏せたままでした。帰るときも父親が支えるように付き添っていきました。
 ある老婆は声高に嘆きながら、両腕を近所の奥さん方に支えられてようよう歩いてやってきました。身も世もあらぬ嘆き方に、慌てて介添えをしながらどこが痛むかと尋ねると、息子が家の下敷きになって亡くなったということでした。


 彼女自身も下半身が下敷きになったそうなので痛みは相当のはずなのですが、自分の身体のことにはまったく関心を向けられないようなのです。亡くなった息子のことだけを、診察中も帰りも嘆いて、近所の人たちになだめられていました。
わたしは彼女の右手を支えて歩きながら、思わず話しかけていました。「すべては神様のご意志なのだから、身体を大事にしてね。」通じるわけはないのですが、別れ際老婆はわたしに抱擁の挨拶をするしぐさをしながら、神様のご意志(マーシャッラー)、神様のご意志、と繰り返していました。この慣用句がこんなに切ない響きとは、と思うのは外国人の感傷でしょうか。


 このようにして、AMDAの医療キャンプは開始されました。翌日には原口医療調整員がクェッタから参入、すぐに診察データの確認が開始され、テントでは対応しきれない患者のために搬送先を検討することも始められました。頼もしい彼女を軸にしてまわり始めたキャンプは、この後11月のラマザン明けまで継続され、惜しまれながら別のチームに引き継がれました。



 
 

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