翌日の18日早朝、私は先発の調整員として岡山を出発し、関西空港から10:00発TG621便でマニラへ向かう。派遣決定からわずか12時間弱。その間、出来る限り現地の最新情報を入手し、協力を要請しようと、マニラの日系企業や報道機関、関係団体に電話をした。フィリピン事情に精通している方々ばかりである。的確な数々のアドバイスをいただき、その後のご協力とともに感謝している。
午後、マニラのニノイ・アキノ国際空港に到着、現地協力団体であるKPACスタッフと合流し、医薬品や医療消耗品など支援物資の購入に奔走した。そして、協議後、私とKPACスタッフ二人が明朝06:00発のフライトでレイテ島まで飛び、マニラに残るKPACのスタッフが、翌日マニラ入り予定の日本人医師と看護師の受け入れ、現地から要請があった医薬品と支援物資の購入を引き続き行うこととなった。
2月19日07:20レイテ島のタクロバン空港到着。KPACスタッフの一人であるリサが、路線バスでソゴッド(南レイテ医師会会長であるマトゥ医師が勤務する病院があり、被災地のセントバーナード町から車で約1時間30分。派遣チームの宿泊先となったゲストハウスがある)へ向かい、マトゥ医師とともに現場の医療支援状況視察とチームの宿泊先確保をすることになった。私ともう一人のKPACスタッフであるダフネは、タクロバンで生活支援物資の購入を行った。南レイテ州はセブアノ語圏で、公用語であるフィリピノ(タガログ)語圏ではない。ダフネはイロイロ島、リサはミンダナオ島出身でともにセブアノ語圏。二人は英語も堪能で、医療通訳としても支障はなかった。
2月20日、ダフネと私は、タクロバン空港に到着した薮谷亨医師、竹内美妃看護師と合流して、道路が陥没していたり、地滑りで埋まっていたりする地点を避けながら通過(日本であれば「通行止め」になりそうなところに、作業員や報道関係者を目当てにしているのか、物売り屋台があった)、セントバーナード町に15:00頃入った。レイテ島は第二次世界大戦の激戦地でもあり、途中、今にも降り出しそうな曇天の下、緑深い密林を眺め、鎮魂の思いで胸が一杯になる。救助および救護活動の拠点(Principal
Hall)を訪問、マトゥ医師とともに当局と今後の救援活動について協議を行ない、支援物資を提供した。その後そこで紹介された避難所の一つ、クリストレイ高校を訪問した。現地看護師が一人派遣されていたが、外国人医療従事者が訪問してくれたのははじめてと歓迎を受け、支援活動の拠点とすることを決定した。