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フィリピン レイテ島地滑り緊急救援活動
医療支援活動が軌道に乗るまで
AMDA広報室 奥谷 充代

災害発生当日、緊急医療支援チーム派遣決定

 

 2006年2月17日朝、フィリピンのレイテ島で大規模な地滑りが発生。AMDAは、チームの派遣を同日夜決定した。
なぜ決定できたのか。
 1.「南レイテ医師会」が現地受入団体となることにより、医療支援が可能になった
 2.マニラに拠点を置くNGOであるKPACの協力により、危機管理上のリスクを大きく回避することが可能になった
 「被災国発国際貢献」、すなわち、ローカルイニシアチブに基づいた人道支援活動のメドが立ったからだった。フィリピンでは、外国人の医療行為は許されていないが、地元医師会の全面的な受け入れで可能となった。そして後日発令された非常事態宣言に象徴される不安定な政治環境や反日感情など、様々なリスク要因を、現地の団体がかかわることによって減少させた。

活動拠点立ち上げと支援物資購入

 

 翌日の18日早朝、私は先発の調整員として岡山を出発し、関西空港から10:00発TG621便でマニラへ向かう。派遣決定からわずか12時間弱。その間、出来る限り現地の最新情報を入手し、協力を要請しようと、マニラの日系企業や報道機関、関係団体に電話をした。フィリピン事情に精通している方々ばかりである。的確な数々のアドバイスをいただき、その後のご協力とともに感謝している。
 午後、マニラのニノイ・アキノ国際空港に到着、現地協力団体であるKPACスタッフと合流し、医薬品や医療消耗品など支援物資の購入に奔走した。そして、協議後、私とKPACスタッフ二人が明朝06:00発のフライトでレイテ島まで飛び、マニラに残るKPACのスタッフが、翌日マニラ入り予定の日本人医師と看護師の受け入れ、現地から要請があった医薬品と支援物資の購入を引き続き行うこととなった。


 2月19日07:20レイテ島のタクロバン空港到着。KPACスタッフの一人であるリサが、路線バスでソゴッド(南レイテ医師会会長であるマトゥ医師が勤務する病院があり、被災地のセントバーナード町から車で約1時間30分。派遣チームの宿泊先となったゲストハウスがある)へ向かい、マトゥ医師とともに現場の医療支援状況視察とチームの宿泊先確保をすることになった。私ともう一人のKPACスタッフであるダフネは、タクロバンで生活支援物資の購入を行った。南レイテ州はセブアノ語圏で、公用語であるフィリピノ(タガログ)語圏ではない。ダフネはイロイロ島、リサはミンダナオ島出身でともにセブアノ語圏。二人は英語も堪能で、医療通訳としても支障はなかった。


 2月20日、ダフネと私は、タクロバン空港に到着した薮谷亨医師、竹内美妃看護師と合流して、道路が陥没していたり、地滑りで埋まっていたりする地点を避けながら通過(日本であれば「通行止め」になりそうなところに、作業員や報道関係者を目当てにしているのか、物売り屋台があった)、セントバーナード町に15:00頃入った。レイテ島は第二次世界大戦の激戦地でもあり、途中、今にも降り出しそうな曇天の下、緑深い密林を眺め、鎮魂の思いで胸が一杯になる。救助および救護活動の拠点(Principal Hall)を訪問、マトゥ医師とともに当局と今後の救援活動について協議を行ない、支援物資を提供した。その後そこで紹介された避難所の一つ、クリストレイ高校を訪問した。現地看護師が一人派遣されていたが、外国人医療従事者が訪問してくれたのははじめてと歓迎を受け、支援活動の拠点とすることを決定した。



現場視察・救援物質輸送


医療品等救援物質寄付

本格的な医療支援活動開始

 

 2月21日、午前中は、ホールと同じ敷地にあるオペレーションセンター(St.Bernard Rural Health & Family Planning Center)で、マトゥ医師のサポートとして藪谷医師と竹内看護師が短時間診察した。それから、チーム全員で被害の大きいギンサオゴンを視察。フィリピン、アメリカなど各国軍の救出作業が続いていた。地滑り現場と川をへだてた対岸にある各国軍のテントが設営されたところまで、数ヵ所設けられたチェックポイントを通過して行った。時折激しい雨が降る中、死臭が漂い、救助活動の困難さが身にしみた。午後は、クリストレイ高校避難所で、健康診断を兼ねた診療を開始した。今回の災害による直接の創傷よりも、心的なショックや慢性疾患を悪化させている患者が目立った。
そして、夕刻、木下真絹子調整員と小山奈嘉子派遣調整員が到着。
 2月22日、午前中にセントバーナード町の東に位置するアナハワン地区病院(Anahawan District Hospital)を医療状況調査のため訪れ、病院側の要請により診察に加わった。今回の地滑りによる重症・中等患者が救助現場から搬送され、病室が足りず廊下にもベッドが並べられていた。需要の高い医薬品や医療消耗品などを提供する。
 午後、AMDAインドネシア支部のイリアワン・イドリス医師とマヘンドラタマ・P・アディ医師が合流。
2月23日、ダフネとリサ、私の先発チームはマニラで後方支援を行うこととし、タ     クロバン14:50発のフライトでマニラに戻る。


アナハワン地区病院での診療視察
 


 
 

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