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アメリカ南部ハリケーン『カトリーナ』緊急支援活動
 AMDA登録看護師  保志門 澄江
米国にもAMDA(AMDA第一期支援事業)
 『AMDAでは、ハリケーン被災者支援事業に参加する人材を探しています。』 ハリケーン襲来後6日目、避難先の友人宅で、日本の友人から電子メールが入った。『そうか〜日本のAMDAが米国で活動を始めるのか!!』米国大学院で国際保健を専攻し、途上国における避難民支援について学んだばかりの私にとって、AMDAに事業に参加する事は、先進国における避難民支援を学ぶチャンスでもあった。
その頃、まだ他の日本のNGOも米国の被災者支援活動を開始していなかった。私は自分の避難民手続きを終了後、一緒に避難してきた猫を友人宅に預け、さっそくAMDAの支援チームに合流することにした。
 AMDA先遣隊の到着から遅れること5日、ハリケーン襲来12日後、AMDA本部の調整員2名と合流することができた。当時AMDAは、約24万人の避難民を受け入れたテキサス州ヒューストン市内に仮事務所を構え、大規模・小規模避難所の状況調査を終え、災害弱者の掘り起こしとその支援活動を模索していた。なぜならば今回のハリケーン被害では、冠水したニューオリンズ市に取り残された被災者達を救出開始するまでに5日間という期間を要した行政の対応の遅さに非難が集中していたが、その後の政府や連邦危機管理局(以後「FEMA」)の対応は比較的円滑に行なわれ、行政機関と民間機関、そしてボランティア団体を取り込んだ、みごとなまでの連帯によって、すでに復興ステージに入っていたからである。
 被災者の住宅支援プログラムや医療支援プログラム、食料支援プログラム、そして教育プログラムなど官民一体となった支援がすでに開始され、また全米各州から寄せられた援助物資や寄付金、さらに約6万人ものボランティアによるサービスなど、被災者が少しでも早く復興ステージへ移行できるよう、様々なプログラムが開始されていた。そして政府は報道関係者向けに被災者状況や政府の政策などを、ヒューストン市内に設けられた大型避難所から連日配信していた。
これにより人々は毎日最新の被災状況、さらに復興支援情報を得ることが可能となっていた。『さすがアメリカ!!』これらの米国の行政機関と民間企業、そしてボランティア団体とのみごとな連帯活動に私は感動を覚えた。 

災害弱者の存在



ヒューストン市郊外のベトナム系キリスト教会
運営の 避難所で聞き取り調査を行う筆者







 すべてが成功に、そして復興に向かっているように見える中でも、やはり災害弱者は存在していた。ベトナム戦争後米国へ移民してきた多くのベトナム人移民、そしてベトナム系アメリカ人もまた災害弱者と言えるだろう。
彼らの多くがニューオリンズから南西メキシコ湾岸沿いの入り江や沼地に住み着き、移住し、漁業や水産加工業を営み、ベトナムコミュニティの中でベトナム文化を保ちつつ暮らしていた。
そこはニューオリンズの中でも最も被害が大きかった3つの郡の中に位置していた。
今回のハリケーンにより彼らの多くが、家や船、財産、職を一瞬にして失っていた。その上、英語が充分に話せない者も多く、言葉の障壁により、今回の救助関連の情報もなかなか伝わらず路頭に迷っている人々や、家や財産に保険を掛けていなかったため、生活復興に全く目処が立たない人々が多く存在していた。
 そのようなベトナム系の被災者達を支援していたのが、ベトナム系キリスト教会や仏教会であった。彼らは教会の一部を避難所として被災者へ提供していた。
そこへ、ヒューストン市内の大規模避難所でアメリカ白人やアフリカ系アメリカ人と共に避難生活をしていた多くのベトナム系アメリカ人達が移動してきていた。
これらベトナム系被災者が身を寄せる避難所は、アメリカ白人やアフリカ系アメリカ人が避難している大きな避難所と比べ、情報や寄付金、支援物資、ボランティアサービスにも乏しく、政府からのサポートも行き届きにくい状況で、生活が楽というわけではなかったが、ベトナム語による情報の確保と同郷の人々と暮らす精神的安心感、ベトナム系社会で生活が継続できるという、社会的相乗効果を求め、累計300名にのぼるベトナム系被災者がそこへ移動してきていた。
そしてAMDAが特に注目したのが、ベトナミーズ・ドミニカン・シスターズというベトナム系キリスト教会の活動であった。
この教会ではシスター達が順番で食事の支度をし、被災者達に暖かい食べ物を提供する傍ら、教会近くの空き住宅の大家さんと連絡を取り、住居を斡旋、さらには新住居の敷金の一部を貸し出しするなどの援助も行っていた。被災者の中には子供達も多く、近くの私立の学校へ被災者の子供達が通えるような支援も行っていた。また学校から帰宅した子供達の宿題の手伝いや、教会の裏庭に男女別の仮設シャワー室を設置し、バレーボールのネットを張り、被災者達とスポーツを通じた交流も楽しんでいた。
このようなシスター達の献身的な支援とアジア的なのどかさのおかげか、身を寄せる多くのベトナム系被災者達は精神的に救われており、悲壮感に陥っていた当初の状況から、将来へ向け生活復興を開始する人々も見られるようになった。
AMDAでは、同教会へ避難している被災者達が早期に生活復興を行えるよう、義援金や生活支援物資の供与を決定した。『いつかニューオリンズで会おうね。』私は心の中でベトナム人の持つエネルギーを信じつつ、AMDAの第一期支援活動を終えた。 
ここがあのニューオリンズ?




ニューオーリンズ市郊外の漁港(上)、住宅街(下)
被害状況


 ハリケーン『カトリーナ』が来襲して一ヶ月、ニューオリンズの一部の地域で帰還許可が下り、私もさっそく帰還することになった。避難先の友人達に別れを告げ、ニューオリンズの家を心配しながらも、ニューオリンズに帰れることで、内心ウキウキしていた。
しかしテキサスからニューオリンズへ近づくにつれ、吹き飛んだ屋根や崩れた家、瓦礫、折れた木が増え、ハリケーンの爪あとを見せつけ始めた。空気はよどみ、どこもかしこもカビとゴミ、海産物の腐敗臭が入り混じったなんともいえない臭気を放っていた。『ここがあのニューオリンズ??』その変わり果てた姿に唖然とした。
『ほんの一ヶ月人々が帰ってこなかっただけで、これほどまでに街が変わるものなのだろうか!?』。 洪水のあった地域は、風害も加わり、多くの建物の屋根が吹き飛び、窓ガラスが割れ、建物の外壁は崩れ、その色は失われ、草木は枯れ果て、路上に駐車してあった自動車は泥水をかぶり、すべてが土色に変わっていた。
また浸水家屋の中はカビに覆われ、有害物質が混入した汚泥が堆積し、無数の蝿や害虫が発生し、もれたガスと湿った空気が混ざり合い、異様な腐敗臭が発生していた。さらに水道や電気などの生活インフラもほとんど回復していない劣悪な環境のか中、被災住民による復興活動が始まりました。
環境保全局やルイジアナ環境省、米国感染症予防センターでは、帰還した住民に対し、細菌やカビなどの微生物によって引き起こされるアレルギーや呼吸器障害、崩れた家の破片や折れた木による怪我、汚泥に含まれた化学物質やアスベスト、鉛塗料の粉塵による健康障害、蚊の媒体による西ナイル熱やデング熱といった感染症の発生など、数え上げればきりが無いほどの環境汚染や健康への影響を懸念していた。
そのため呼吸器や目の健康被害を予防するためマスクやゴーグル、手袋の着用、防蚊剤の塗布、手洗いやうがいなどを奨励していたが、物質的援助はみられず、多くの帰還者達は手袋だけ着用し復興作業を行っていた。





AMDA第二期復興支援活動
 『こんな環境で復興活動を続けたら、みんなが病気になってしまう!』ニューオリンズの復興活動に危機感を抱いた私は、AMDA本部へこの状況報告をすると共に、市内で最も被害が大きい3郡について被災状況の調査とニーズ調査を行った。
その結果、ベトナム系アメリカ人が多く住む南西メキシコ湾岸沿いの入り江や沼地が多い地区は、街全体が破壊され、復興すら困難なのではないかと思ってしまうほどの被災状況だった。
しかし、そんな状況下でも、この3郡のベトナム人教会を総括するベトナム系教会が中心となり、住民の復興活動に向け動き始めていた。この教会では、ベトナム系の神父達が中心となり、全米各州から復興支援に訪れたボランティア達とともに、住民達の家の掃除や補修などの支援を行っていた。
また、この教会自体も他の被災地同様、電気や水道、トイレ等の生活インフラは全く回復していなかったが、帰還した住民達やボランティア達の避難所として機能し始めていた。
『おうAMDA!!テキサスの教会にも来ていたよね!また会えたね!!』教会にいたひとりの神父が声をかけてきた。テキサスのべトナミーズ・ドミニカン・シスターズへ避難している時に、AMDAの活動を見ていたらしい。私は何か彼らの役立てることがないか模索していたところだったので、その神父やボランティアの中心となる人物に対しニーズ調査を行い、復興支援に役立つものについて協議した。やはり彼らも、ボランティアや帰還した住民達の健康被害についてかなり懸念しており、健康被害の予防具が不足していることが分かった。


 これらの事態を鑑み、AMDAでは第一期支援活動に引き続きベトナム系アメリカ人被災者に対する生活再建物資の配布を決定。支援物資にはマスクや手袋、ゴーグル、予防着といった健康被害予防具を中心とした清掃用具を盛り込み、被災者の生活再建に直結した援助を行うこととした。トラックに積み込まれた500世帯2千人分の援助物資を教会まで運びこむと、すぐに滞在中のボランティア達が集まり運搬作業に入った。
やはりアジア人らしいすばらしいチームワークである。
また異国の地アメリカでアジア人同士助け合えたことは、同じくアジア人の私にとって、精神的にも充実感を覚えるものであった。  
 


 
 

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