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歴史と現状
恒常的な浸淫地帯であるインド(バングラデェシュのガンジス川デルタ)から、時には近隣の極東地方に広がりを見せる。19世紀の初頭から6回の世界的汎流行があり、アジア、欧州、米大陸に多数の死者を出す原因となった。これが国際的なパニックに陥れ、1851年にパリで会議を開くきっかけとなって、国際的な公衆衛生上の問題として持ち上がった。
これらの流行は最初に、キャラバン隊、大型商船や軍隊或いは移民の移動による沿岸交通によってゆっくりと引き起こされ、次いで鉄道や船の交通路上に流行が広がった。メッカ巡礼の交通の要衝は急速にその中心となった。コレラ菌はKochによって、1883年エジプトで分離された。
1923年から1960年まで、コレラはインドと稀に極東、および1947年のエジプト(フランスにも小さな流行を見た)に限局されていた。従来のコレラ菌は主要な病原菌であったが、1905年に(メッカの)El Tor検疫所で新たなビブリオ菌が発見され、El Torビブリオとして長い間、害のない菌と考えられてきた。1937年にインドネシアのCelebes(スラウェジ島)で、本菌が真正コレラの原因と判り、病原性の可能性が明らかとなった。後に従来のコレラ菌と同様、病原菌と認められるに至った。
1961年に7度目の汎流行が始まった。 Celebes産のEl Tor型がまずインドネシア全域に広がり、極東とインド(ここではクラシック型のアジア型と混雑した)で流行した。1965年にはアフガニスタンを通ってイラン、次いでイラク(1966年8月)に流行巣が生じた。1970年の近東での流行の拡大には、スエズ運河近隣の政治情勢に絡む人間の往来が関係している。主な流行国は、イスラエル、ヨルダン、トルコ、旧ソ連、旧チェコスロバキア、エジプトであった。この近東北部への再度の流行では、公衆衛生管理が行き届いた諸国では軽微に終わっている。
逆にアフリカでは、流行は不測の形を取って、3つの方面に急激に広がった。北へはエジプトに始まって、リビア、チュニジア、モロッコの地中海沿岸と進み、アルジェリアも被害を受けた。以来マグレブ諸国は浸淫−流行地帯となっている。東へはエジプトまたはソマリアに始まって、エチオピア(重要な感染巣)、スーダン、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、タンザニアと広まった。西へは、コレラは1年以内にアフリカ西部と中央部に広がった。ギニア(1970年8月)の沿岸部から急激にカメルーン(1971年3月)に至り、同じ速度でマリのサヘル地方(Mopti には1970年11月)からニジェールを通って、ブルキナファソ、ニジェール、ナイジェリア、カメルーン北部(1971年5月)、チャド、中央アフリカ(1971年6月)、モーリタニア、セネガル東部(1971年夏)に広がっている。その一方、1971年の3月から4月にかけて、バングラデェシュとベンガル湾周辺が大規模な流行に見舞われている。
1972年以来、汎流行は(スペイン、ポルトガル、イタリア、コロモ諸島で)短い流行を、(フランス、オーストラリア、米国、ブラジル、英国で)輸入散発例を繰り返しながら、大陸間に広がっていった。1976年にはこの浸淫は、従来からのインド、東南アジアの他に、アフリカにもしっかりと根付いた。東アフリカの大地溝帯地方やインド洋と太平洋の幾つかの島々では1978年に、アフリカ南部では1979年に流行が続いた。
1990年の時点で、コレラは世界で69,631例が報告された。うちアフリカが37,960例、アジアが30,979例、オセアニア66例、米国7例、欧州 349例(うちルーマニアが新たな流行地となり 270例)であった。1991年に第7次の汎流行が初めてペルーの海沿いに広がって、出現した。原因菌は生物型がEl Tor型、血清型が稲葉型のビブリオO1 で、アフリカに見られる大半の菌と違い、通常の抗生剤に感受性を示す。このコレラ菌は(ペルー、エクアドル、コロンビア、ブラジル、チリ、ボリビア、ベネズエラと)南米の殆どと中米(メキシコ、グアテマラ、サルバドル、ホンジョラス、ニカラグアの)に急速に広がった。ペルーでは1991年に30万の症例が報告され、3千人が死亡した。汎流行の全容は斯様の如くとなる。
同時にアフリカでコレラの再流行も手伝って、1991年には疫学上1万人を越える死者を記録している。
 
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