アンゴラ

アンゴラ国内避難民救援プロジェクト
アンゴラ事務所 プロジェクトコーディネーター
谷合 正明
(2000年12月)
AMDA Journal 2001年 1月号より掲載

 皆さんアンゴラにようこそ!

 AMDAは本年9月より南部アフリカのアンゴラ共和国にて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)アンゴラオフィスの協力のもと、難民支援プロジェクトを開始することになりました。今回、日本政府もアンゴラに対しては国際機関を通して、資金的なサポートをしております。こうした中、わたしは、アンゴラで活動する唯一の日本のNGOとして、AMDAに対する期待の高さ、また役割の大きさを日々感じております。

 このプロジェクトは、具体的には、北部ザイーレ州のムバンザ・コンゴという町にある州立病院において、AMDAの医師による診療、現地病院スタッフのトレーニング、栄養プログラム、予防接種プログラム等を中心に実施するものです。今回がアンゴラからのはじめてのレポートとなります。今回はあっという間に過ぎ去ったこの2ヶ月の足跡を辿ってみたいと思います。


1.アンゴラプロジェクトについて

 8月21日、岡山本部より2名のスタッフがアンゴラ駐在の辞令を受け、関西空港を飛び立ち、一路南アフリカ経由でアンゴラに向かった。その3日後には、アフリカのジブチ共和国から2名の応援部隊が、パリ経由でアンゴラに向かった。日本からの2名はわたし谷合(プロジェクト・コーディネーター)と田中一弘(ファイナンス・オフィサー)、ジブチからの2名は、AMDAジブチオフィス駐在代表のハサン氏と同じくAMDAのプロジェクトに従事中の伊藤まり子医師である。

 UNHCRは難民支援を一手に引き受ける国連機関である。アンゴラでのUNHCRのプロジェクトは、98年にみたび再開された内戦の影響を受けて大幅縮小して以来、2年ぶりに本格的に始まるものであった。AMDAも95年から98年まで、UNHCRの実施パートナーNGOとして、サンザ・ポンボという小さな町で、病院支援のプロジェクトを行っていた。

 前回は帰還難民支援が中心のプロジェクトであったが、今回は100万とも200万人とも言われている国内避難民の生活支援が目的である。

 1975年にポルトガルから独立して以来、この国の人々は、25年にもわたる内戦に苦しんできた。この内戦は世界の冷戦の縮図と言われた。現在も、内戦に終止符が打たれたわけではない。反政府軍組織であるUNITAは、11月11日の独立記念日を前にして、まだ戦争は続いているとの声明文を発表したばかりだ。

 アンゴラは本来豊かな国であった。石油もダイヤも採れる。広大な国土は、農業にも適した土地を持つ。ある国連関係者は「資源で言えば、世界で一番豊かな国かもしれない。だが最もまちがった歴史を繰り返してきた国だ」と言っている。

 結果、首都ルアンダには、地雷で足を失った人が集まり、国内の別の地方を追い出された国内避難民の数が増大している。地方に目を移せば、都市と都市を結ぶ道路は、まったく安全ではなく、物資が届かないでいる。食料はもちろん、医療や教育といった基本的な生活基盤が、行き届いていない。緒方貞子難民高等弁務官は、今年1月の国連安保理の席上、アンゴラを、アフリカでもっとも人道的危機がある国と形容した。

 国際機関やNGOのなかでは、アンゴラはもっとも援助が難しい国とされる。その1つが物価の高さ。農業を始めとして国内産業は長引く内戦の影響で、ずたずたにされた。すべて輸出に頼っているといっても過言ではない。ゆえに首都ルアンダは、東京以上の物価の高さである。驚くことに、田舎町であるムバンザ・コンゴの食料品は、ほとんど空輸に頼っているためルアンダ以上に高い。もう1つはいまだ十分な安全が確保されていないということ。国内には、1000万個の地雷が埋まったままである。そして輸送の問題。わたしたちNGOは首都近郊の難民キャンプを除いて、ほとんどの活動場所で世界食料計画(WFP)の輸送機に依存している。陸路での移動は安全が確保されていないため、事実上不可能だ。

2.プロジェクト立ち上げ

 9月14日、われわれはようやくUNHCRとの契約を済ますことができた。本年12月までの4ヶ月のプロジェクトであるが、おそらく来年も引き続きAMDAは同様の事業を実施していくことになるだろう。契約にこぎつけるまでに時間がかかったのには、理由がある。もともとAMDAはムバンザ・コンゴにある州立病院の整備事業をする予定であった。ところが政府側が実は、まったく同様の事業を計画していることが判明し、急遽、われわれはUHNCRと政府との交渉のもと、この病院のスタッフのトレーニングや栄養プログラム、ワクチン接種などの事業に変更することになったからだ。いわばハード事業からソフト事業への方向転換である。

 まずわれわれが一番はじめにしなければならなかったのは、オフィスの設立であった。以前、この国でAMDAはプロジェクトをしていたが、何もかも撤退していたので、今回はすべてゼロからのスタートであった。オフィス設立とは、要するに、現地政府に必要な手続きをとり、銀行口座の開設をし、スタッフの雇用をするといったことである。

 難航したのは、オフィスを見つけることだった。物価が高い上に、家賃を6ヶ月や一年の前払いで請求するので、非常に高額な資金が必要であった。金額以上に、家主との交渉は難しいものだった。突然、家賃を10万円あげてきたり、契約直前になって別の業者に家を貸してしまったり。われわれは常に忍耐を要求された。

 最終的にAMDAアンゴラの新しいオフィスは、10月7日に決めることができた。はじめオフィスには何もなく、現地職員を含め私たちスタッフは、文房具やテーブル・いすも無い状態で仕事を続けた。10月23日には、プロジェクトサイトであるムバンザ・コンゴにもオフィスを設立した。このオフィスは、ムバンザ・コンゴでもっとも好条件の家であったが、台所・トイレ・窓といった基本的にすべての個所を修復しなければ住めない状態であった。今では、ルアンダのオフィスは、かなり環境も整い始め、岡山の本部とは電子メールでやり取りできる状態になった。現在のところ、ルアンダのオフィスとムバンザ・コンゴのオフィスとは、衛星電話と無線をつかって、交信を進めている。

3.ムバンザ・コンゴ
  (Mbanza Congo)
  ─町の様子と州立病院の現状

 この町は、名前が示すように、アンゴラ国内でも北部のコンゴよりの地域に位置する。隣国コンゴ(旧ザイール)からは、わずか60km離れたところである。首都ルアンダからは、約1000キロメートル離れており、小型飛行機で約1時間15分の距離である。人口は、約4万人で、ザイーレ州の州都ではあるが、さびれた町との印象がある。この町の歴史は古く、15〜16世紀に、サブサハラアフリカで一番古い教会が建てられている。今でもキリスト教の活動は盛んで、ポルトガルなどから来ているシスターが数名活躍している。

 町にはこれといって特別なものは何もない。ただ滑走路があるだけの飛行場を中心に、政府の建物が目立つぐらいである。大きな青空市場が一ヶ所あるが、ここ数年陸路での大量輸送が困難であったために、食料品を含め建築資材などほとんどのものが不足あるいは入手不可能である。しかし、治安状況が改善されたためか、10月には首都から大量の物資を積んだ政府の輸送トラックの隊列が到着し、翌日にはまたたく間に雑貨屋などが町に開店した。


 1998年には内戦がひどくなり、この町の住民が隣国のコンゴに難民として流出したり、国内の別の地域に、避難を余儀なくされた。現在、ムバンザ・コンゴは、周辺の安全状況の改善に伴い、コンゴからの帰還難民や周辺の地域に逃げていた地元住民が徐々に戻り始めてきている。ただし、住民の基本的な生活基盤が整っていないため、急ピッチに町の機能が回復しているとは言え、緊急的な支援活動が望まれている。

 ここで活動するNGOは、AMDAを含め5つほどある。それぞれが医療、水、農業、教育、住居などの分野で、UNHCRのパートナーシップのもと、プロジェクトを進めている。私たちは10月下旬にオフィス立ち上げをしたわけで、現地ではもっとも新しいNGOである。蛇足ではあるが、はじめオフィスは仕事するどころか住める状態ではなく、この地でプロジェクトをする前にまず、水と発電機による電力の確保を行った。

 町の中心部には、AMDAの活動場所である州立病院がある。約80床ほどの病院には、産婦人科、小児科、外科、臨床検査室など名前としてそろってはいるが、中身はないない尽くしで、医薬品はもちろんのこと、ノートやペンなどの事務用品もない。病院には、スタッフが100人ほど登録されているが、政府から給料が十分に支払われていないためか、一部の看護婦などはルアンダや他の都市へ仕事を求めて出てしまっているようである。そもそもこの町には、医師の資格のあるものが1人しかおらず、その医師が州の保健省の役人でもあるため、あちこちに飛びまわっており、この病院にいないことも多い。つまり常駐の医師不在の病院と言えよう。

 衛生環境も極めて悪い。現在病院は、政府による改修工事が進められている途中で、何人かの入院患者が、仮設テントでの生活を余儀なくされている。このテントは、昼間太陽が照れば、中はものすごく暑くなり、また一度雨に見舞われると隙間から雨が差し込むという、最悪の環境である。現在は雨季であるため、熱帯地方特有のスコールに見舞われると、患者の健康状態が気遣われる。入院患者の疾病は、主に結核、黄熱病、眠り病、マラリアなどほとんどが感染症であるが、適切な処置も施されず、患者は病院の中で“放置”された状態である。


 このような状態だからこそ、私たちが現地へ赴いて政府に事業の目的と内容を説明したとき、歓迎されたのだと思う。とくにAMDAが常駐の医師を派遣することに対して大いに歓迎された。他のNGOや政府からは、医薬品の供与があっても、それを使いこなす医師の派遣が今まで無かったからである。政府の役人だけではなく、住民がとくに歓迎していることに大きな意味がある。ある一人の婦人は、「AMDAが来てくれて本当に嬉しい、とくに私たち女性は産婦人科医を求めていたのです!」と喜びの声を口にした。

 11月16日に医療コーディネーターであるリアコット医師による、トレーニングプログラムが始まった。このトレーニングプログラムというのは、病院の医療スタッフに対する正しい医療知識の普及を図るものである。

 援助依存をなくすために、住民のCapacity Buildingを主眼に入れたプロジェクトが期待されているのである。第1回のクラスは、現地でもっとも恐れられているツエツエ蝿を媒介とする眠り病についての講義であった。

 当日は病院スタッフ22人が参加し、約1時間のレッスンと質疑応答となった。当然通訳を介しながらのレッスンであったが、皆真剣に耳を傾けていた。ただ、ノートとペンがないためにメモをとれるものが少なかった。そこで私たちは学習用に最低限必要な文房具を病院スタッフ全員に送ることに決めた。またなぜだか分からないが、参加者全員が男性であった。女性のスタッフが半数以上いるはずなので、今後は女性の参加も促すことも考えなければならない。


8月24日  アンゴラ入り
(6月に第1回の調査チーム(ハサン・谷合・奥見医師)を派遣している)
8月28日  ジブチよりハサン氏・伊藤医師合流
8月29日  ザイーレ州副知事、UNHCRとの初会合
9月1日  銀行口座開設
9月12日  UTCAH(政府人道支援局)との会合
9月12日  バングラデシュよりリアコット・ホセイン医師合流
9月12日  保健省との会合
9月14日  UNHCR、MINARS(政府機関)、AMDAで事業実施の契約
9月27日  外務省との会合
9月28日  ムバンザ・コンゴにて、病院関係者、州政府要人との会談
10月4日  UNHCRからプロジェクト資金の支払い
10月7日  ルアンダオフィス設立
10月23日 フィールドオフィス(ムバンザ・コンゴ)設立
10月23日 州立病院へ医薬品の供与



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