1984年設立、国連経済社会理事会総合協議資格NGO 認定特定非営利活動法人AMDA

AMDAグループ代表挨拶「医師である私の原体験」 グループ代表 菅波茂

私がいちばん初めにアジアに関心を抱いたのは、福山誠之館高校(広島県福山市)の2年生の時です。
 1963年夏、私は1枚の写真に出会いました。当時の私とちょうど同い年くらいの一人の日本人兵士が、海岸の浅瀬に顔を半分突っ込んで死んでいる写真でした。夏の真昼でセミがうるさいくらいに鳴いていたのをよく覚えています。

 

初めて目にした時は、金縛りにあったようにしばらく目を離すことができませんでした。兵士の死に顔はそんな死に方にもかかわらず非常に安らかでしたが、自分とそう年の変わらない彼がなぜこのような死を迎えたのか疑問でした。写真は、祖父の蔵書のなかにあった『記録写真 太平洋戦争史』(光文社版)のなかに掲載されていました。ニューギニア戦線の項にありました。太平洋戦線で太平洋南洋諸島と東南アジアに展開した日本軍の総数は約50万人といわれています。安らかな死に顔を見せていた彼の死も、太平洋戦争中の数限りない死の一つにすぎなかったのかもしれませんが、この写真は多感な青春時代にあった私にアジアへのこだわりを抱かせることになりました。

当時の日本の若者のバイブルに『なんでも見てやろう』(小田実著)という本がありました。1969年、全国に学園紛争の嵐が吹き荒れた時、岡山大学医学部4年生だった私はこの本をリュックサックに入れてアジアへの一人旅へ出発しました。マニラとマルセーユを結ぶフランス郵船の最後の航海でした。横浜からバンコクを経由して、シンガポールで下船。航海中には南ベトナム空軍機の出迎えも受けました。ベトナム戦争たけなわの頃でした。シンガポール→マレーシア→タイ→ビルマ(現ミャンマー)→インドと陸路列車を乗り継いで、最初に訪れたのは、インド・アグラにあったアジア救らい協会インドセンター。ここに3ヵ月滞在して、ハンセン病研修を受けました。その後は、パキスタン→アフガニスタン→イラン→クェート→パキスタン→インド→ビルマ(現ミャンマー)→タイ→カンボジア→香港、と旅しました。

私が最初に訪れたアジア救らい協会インドセンターは、那須元インド大使や宮崎松記博士の尽力によって日本の民間で設立されたハンセン病専門のセンターでした。医学生だった私は、ここで初めて国際医療協力の現場を体験しました。センターでの研修を辞した後は、まさに放浪そのものでしたが、放浪を通じてアジアの医療を我が身をもって体験することにもなりました。ビルマの古都マンダレーではピンク色の混濁した筋肉注射を受け、インドのラジギールでは40度の高熱が一週間続きました。アフガニスタンの首都カブールではマトンの肉で胃の調子を崩しました。イランの首都テヘランでは体調がすぐれず1ヵ月滞在しましたが、テヘラン市民病院の診療はすべて無料でした。香港では夜間救急センターで3時間待たされ、台湾ではインターンの医師が注射からすべての処置をこなしてくれました。

医療を施されたことばかりを並べると、身体の調子に悩まされただけの放浪のようですが、そうではありませんでした。放浪によって、私は「パンドラの箱」を開けてしまいました。箱の中には、“多様性のアジア”という魅力的な女神が微笑んでいたのです。8ヵ月に及んだ放浪から帰国した時は、下駄ばきでパキスタン軍から払い下げられたカバンを肩からぶらさげているという一人前の和製ヒッピーになっていました。

『遥なる夢−国際医療貢献と地域おこし−』 より抜粋                     
菅波茂 著 1993年9月発行 発行所:アジア医師連絡協議会 

 
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