1984年設立、国連経済社会理事会総合協議資格NGO 認定特定非営利活動法人AMDA

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 コラム

  • 第10回 書家 小野田 松濤様

    公開日:2016年11月17日
    連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第10回書家小野田松濤様AMDAを支えてくださっているご支援者の皆様に、インタビュー形式で様々なエピソードをお伺いしている「支える喜び」シリーズ。第10回目となる

    • 第9回 林 秀樹先生

      公開日:2016年07月29日
      連載インタビュー「支える喜び」シリーズ
      第9回 林 秀樹先生
      医療法人芳越会 ホウエツ病院長


      AMDAを支えてくださっている支援者の皆様に、インタビュー形式でエピソードをお伺いしている「支える喜び」シリーズ。第9回目となる今回は徳島県美馬市のホウエツ病院長で、熊本地震など大規模災害の被災地支援で医療スタッフを次々と派遣されている林秀樹様に話をお伺いしました。

      救急救命、地域医療に邁進

      AMDA お忙しいところありがとうございます。今回の熊本地震でもホウエツ病院の方々のご活躍は素晴らしく、職員一同感銘を受けています。
      とんでもない。そう仰って頂だけてとても嬉しいです。
      AMDAそもそも先生が救急救命医療のためにヘリポートを作り、地域医療に熱心に取り組むことになったきっかけを教えてください。
      ホウエツ病院のある徳島県美馬市には自治体病院がなく、当院が2次病院を任されています。当方の様に過疎化の激しい田舎において小規模民間で2次病院に取り組んでいくのは、人的・経営的にとても大変です。
      ホウエツ病院の前身は、父が昭和23年に築いた林病院です。私は徳島大学旧第3内科勤務を経て昭和60年頃から本格的に林病院に携わるようになりました。
      当時はMRIなどの検査機器がそろっている医療機関は当地域になく、病状の進行した患者さんはかかりつけ医から遠方の基幹病院に紹介されていました。父とともに地域の利便性を考え、内視鏡やCT・MR等の医療機器をそろえ、悪性疾患の発見に取り組みました。
      検査体制が整うと救急車受入れも増え、2次病院を要請されました。そこで救急車が来るまでに状況に即した準備が整えられるよう、現場の消防と専門ホットラインを作りました。当時ホットラインは大学病院など基幹病院にもありましたが、24時間誰かが必ず電話に出る体制は未だありませんでした。
      AMDA 何年くらい前の話ですか?
      ホウエツ病院ができてからなので、20年前の話です。2000年には介護保険が始まり高齢者が多い当地域では殆どの医療機関が慢性期医療に取り組み、多忙で経費のかかる急性期をする病院が殆ど無くなってしまいました。検査機器や初期医療体制を充実して救急車の受け入れを良くするために、平成8年5月1日に現在のホウエツ病院に新築移転しました。

      • 第7回 サーダー・A・ナイーム医師

        公開日:2016年01月25日

        連載インタビュー 「支える喜び」シリーズ
        第7回 サーダー・A・ナイーム医師
        日本バングラデシュ友好病院(JBFH)院長
        AMDAバングラデシュ支部長


        第7回目となる今回は、2015年10月11日に岡山市で行われた「第3回国際医療貢献フォーラム」に基調講演者として招へいされたAMDAバングラデシュ支部の支部長、サーダー・A・ナイーム医師にお話しを伺いました。
         

         文部科学省奨学生としての日本留学


        AMDA:
        ナイーム先生のご経歴の原点は、日本の文部省(現文部科学省)の奨学金で日本に留学されたことと伺いましたが。
        ナイーム:
        そうです。私がダッカ大学医学部を卒業した1985年は、卒業後に欧米諸国へ留学して専門職を学ぶことが主流でした。私もそのような留学を目指していたのですが、ダッカ大学の歴史学部の教授が(後から私の義理の父になるのですが)、奨学金制度のある日本への留学を薦めてくれたのです。第二次世界大戦後、素晴らしい経済発展を実現した日本から学ぶことは貴重だと。当時はメールもインターネットもない時代。何とかコンタクトを取ろうと、資料集の中から独力で肝臓、胆嚢、膵臓の外科医を探し、第一人者の東京大学の教授に手紙を書きました。するとその教授は、面識もない私の熱意だけを評価してで推薦状を書いてくださり来日が叶いました。そして1987年から5年半の間、東京大学第二外科で、日本でもまだ新しかった腹腔鏡手術の技術習得に邁進しました。この技術を母国でも広めることが自らの使命と確信した私は1991年、母国の外科医を日本に招へいし、東大の私の手術室での様子を見てもらいました。その年末、母国の外科学会と協力して、母国でも手術の生中継をしました。次の日の新聞各紙で、私の手術が「新しい医療技術の幕開け」と紹介されたことは今でも覚えています。

        • 第6回 河野新一郎様

          公開日:2015年10月30日

          連載インタビュー 「支える喜び」シリーズ
          第6回 河野新一郎様
          岡山県洋蘭協会 副会長

           
          AMDAを支えてくださっているご支援者の皆様に、インタビュー形式で様々なエピソードをお伺いしている「支える喜び」シリーズ。
          第6回目となる今回は、岡山県洋蘭協会の副会長で、約20年にわたり、AMDAを継続的にご支援くださっている河野新一郎様にお話をお伺いしました。
           

          AMDAとの出会い 洋ラン栽培を通じて培った信頼

           
          AMDA:
          本日はお忙しい中ありがとうございます。
          さて早速ですが、河野副会長とAMDAは創設以前からのつながりがあるとお聞きしましたが。

          河野:
          はい、そうなんです。
          話しは設立以前、AMDA創設者で現グループ代表の菅波茂氏のお父様、菅波堅次氏にまでさかのぼります。
          故・堅次氏は多くの趣味を持たれており、洋ランの栽培も大変熱心にされていました。
          その当時、ハーバード大学にアメリカ蘭協会があり、会員であった我々も、世界中のランに関する論文、最新情報を得ることができました。
          堅次氏も栽培や育種の研究を熱心にされ、1963年英国王立園芸協会(RHS)に新品種「サザナミ」を登録されました。

          本種は従来なかった美しい色彩のピンク系小型シンビジウムで、海外のラン展示会にも出品し、世界的に日本のランが注目され、大いに話題となりました。
          私も種子を預かり、無菌栽培から育成・開花に至るまで、この画期的な新品種の「サザナミ」作出に関わらせていただき光栄でした。
          このつながりが、その後のAMDAさんとの活動のきっかけになっていると思います。

          • 第5回 アンディ フスニ タンラ 医師

            公開日:2015年07月31日

            連載インタビュー「支える喜び」シリーズ
            第5回 アンディ フスニ タンラ医師
            AMDAインターナショナル緊急救援委員会委員長
            AMDAインドネシア支部長
            ハサヌディン大学麻酔科元学部長 


             AMDAを支えてくださっているご支援者の皆様に、インタビュー形式で様々なエピソードをお話しいただいている「支える喜び」シリーズ。
             第5回目となる今回は、世界30カ国にある支部の中でも、AMDA多国籍医師団をけん引して多くの緊急医療支援活動に関わってくださっている インドネシア支部の支部長 アンディ フスニ タンラ医師にお話しをお聞きしました。
             

            日本と菅波代表との出逢い

            AMDA:
            本日はありがとうございます。タンラ先生は、日本とのご縁も長く深く、平成16年には日本の外務大臣表彰も受けていらっしゃいますよね。
            タンラ:
            AMDAとの歴史は1981年にさかのぼりますね。
            1981年に広島大学医学部麻酔科で博士号を取りました。
            そして同年、岡山駅でAMDAグループ代表の菅波先生にインドネシア支部設立の依頼を受けて、快諾して以来の仲です。
            私の大好きな言葉、「ファンタスティック」な出会い、まさに「AMDAと一緒に年を重ねてきた」と感じています。
            私は、神が繋いでくれたこのご縁に心から感謝しています。
            日本で勉強をする機会を与えられ、菅波先生や多くの友人に恵まれました。
            殊に菅波先生と知り合えたことは、本当に幸運だったと思います。私はこの世に「偶然」というものはないと信じています。
            すべては始めから決まっていたことだと考えています。
            菅波先生に会ったこともこれは「偶然」ではなく「必然」です。
            私は、これまで多くの親切な日本人に出会い、そしてそれが広がって多くの活動に繋がっています。
            さらに日本以外の各支部の先生方など世界の方たちに出会う事が出来ました。
            これは菅波先生のお蔭です。

            • 第4回 片岡聡一様

              公開日:2015年04月27日

              連載インタビュー 「支える喜び」シリーズ

              第4回 片岡 聡一様(総社市 市長)

              AMDAジャーナル2014年夏号から連載をスタートさせたインタビューシリーズ「支える喜び」。
              AMDAを支えてくださっているご支援者の皆様に、インタビュー形式で様々なエピソードをお話し頂いています。

              2015年度最初のインタビューは、「多文化共生」に積極的に取り組まれ「大規模災害被災地支援に関する条例」の制定など、日本に先駆けて様々な先駆的取り組みをされている自治体・岡山県総社市の片岡聡一市長にお話をお聞きしました。
               

              真の多文化共生に向けて 「AMDA」との出会い

              AMDA:
              本日は貴重なお時間を頂き、ありがとうございます。まずはAMDAとの出会いをお聞かせください。
              片岡:
              倉敷出身で同じ青山学院大学の大先輩であり恩師でもある泰緬鉄道の永瀬隆氏から、「面白いヤツがいるから」と紹介されたのが若き日の菅波先生でした。
              当時、菅波先生がおっしゃられていた「西のジュネ―ブ、東の岡山」という言葉。
              初めて聞いたときは驚きました。
              しかし、故・橋本龍太郎総理大臣の秘書官として、大臣とともに世界を飛び回りデンバーやバーミンガムでのサミットを経験。
              世界のトップの方々の物の見方考え方などに触れることを経て、この言葉に現実味を感じるようになりましたね。

              • 第3回 ラシャド ファラ様、多津子様 ご夫妻

                公開日:2015年01月28日

                連載インタビュー 「支える喜び」シリーズ

                第3回 ラシャド ファラ様、多津子様 ご夫妻

                (ジブチ共和国大統領特別顧問 国連特使 前駐仏・元駐日ジブチ共和国全権大使)

                AMDAジャーナル2014年夏号から連載をスタートさせたインタビューシリーズ「支える喜び」。
                第3回目となる今回は、AMDA創立30周年記念式典に遠路はるばるご出席くださいましたファラご夫妻にお話しを伺いました。
                 

                ジブチの状況を救ってくれた AMDAとの出会い

                AMDA:
                本日は遠方から、この日のために来日していただいたとお聞きしております。
                本当にありがとうございます。
                ファラ:
                皆様と御一緒にAMDA創立30周年記念式典に臨めます事は、大変名誉な事であり、この上無い喜びでもあります。
                心からのお祝いを申し上げます。
                AMDA:
                さて、AMDAとの出逢いについては、奥様を通してと伺っております。
                ファラ:
                そうです。初めて菅波先生に成田空港でお目に掛かったのは1992年のことですから、早22年になります。
                当時のアフリカ大陸では、ベルリンの壁崩壊後のアフロペシミズム( アフリカ悲観主義 )の大きな波に直面しており、多くの紛争がありました。
                AMDAの設立前から菅波代表の活動を応援してきた妻の勧めで、私は海外出張から帰国したばかりの菅波代表に近隣のエチオピア、ソマリアから内戦を逃れジブチに押し寄せて来た難民の窮状、医療支援の必要性を訴えました。
                菅波代表は、その状況を瞬時に理解され、敏速にプロジェクトの準備に取り掛かって下さり、数か月後には、スタッフを連れてジブチに来てくださいました。

                • 第2回 黒住 宗道様

                  公開日:2014年10月25日

                  連載インタビュー 「支える喜び」シリーズ

                  第2回 黒住 宗道様

                  (黒住教副教主)

                  AMDAを支えてくださっているご支援者の皆様に、インタビュー形式で様々なエピソードをお話いただいています。
                  第2回目となった今回は、AMDA発足以前から親子2代にわたり、宗教者のお立場からAMDAを支えてくださっている 黒住教副教主 黒住宗道様にお話をお聞きしました。
                   

                  AMDAとの出会い 医療と宗教のコラボレーション

                  AMDA:
                  AMDAとの「ご縁」は、AMDA設立前に遡ると聞いておりますが・・・。
                  黒住:
                  AMDAグループの菅波代表と黒住教教主の黒住宗晴との出会いは、1981年です。
                  その後1984年にAMDAが設立されるわけですが、当時まだ学生であった私は、1988年に留学先の英国から帰国して、 まずは挨拶まわりのために全国の支部を巡拝するなど、教団内の活動に終始していました。
                  AMDAとの実質的な出会いは、1993年に岡山市で開催された「国際シンポジウム・林原フォーラム」です。
                  人道支援に「医療」だけでなく「宗教」の視点が入ったシンポジウムで、この中で分科会のコーディネーターをつとめさせていただきました。

                  • 第1回 渡丸 弘之様

                    公開日:2014年07月25日

                    載インタビュー 「支える喜び」シリーズ

                    第1回 渡丸 弘之様 

                    (公認会計士)

                    AMDAの活動は公的資金に頼らず、皆様の募金をはじめとする有形無形のご支援により成り立っています。
                    これまでに様々な形でAMDAを支えてくださっているご支援者の皆様に、インタビュー形式で「支える喜び」として連載をスタートします。
                    第1回目は、長期間にわたりボランティアとしてAMDAを支えてくださっており、2012年度からは監事をお引き受け下さっている渡丸弘之様にお話をお聞きしました。
                     

                    AMDAとの出会い。そしてボランティアのきっかけ

                    AMDA:
                    本日はお時間とっていただきありがとうございます。
                    早速ですが、現在東京にお住いの渡丸先生が、AMDAと出会ったきっかけを教えてください。
                    渡丸:
                    私が、菅波代表と初めてお会いしたのは、今から20年前です。
                    当時は東京と岡山で仕事をしており、菅波代表が運営されていた医療法人の会計及び税務の顧問をさせていただくことになったのがきっかけです。
                    毎月の月次決算説明会の後、いつもアムダの話を聞かせてくれました。
                    それまで会計士という立場上、企業利益や節税について考えることに時間を費やしてきた私にとって、菅波代表の話は、新鮮でかつ奥が深く、「菅波代表は特別な人なのだ」という思いを抱きました。
                    AMDA:
                    その当時、菅波代表はAMDA以外にも医療法人の経営をしていましたからね。
                    渡丸:
                    そうなんです。医師としての側面だけでなく、病院の経営者としてもご尽力されていました。
                    なおかつ人道支援活動のNPOを組織し、自らも緊急支援活動に参加されるなど、精力的な活動をされていました。
                    さらに大学でも教鞭ととられ、各国の要人ともお会いになられている方なのに、全くそれを感じさせない、誰に対しても気さくな態度で、その人間性に惹かれました。

                     
                     
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