1984年設立、国連経済社会理事会総合協議資格NGO 認定特定非営利活動法人AMDA

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バングラデシュ・ロヒンギャ難民緊急医療支援 参加医師からの報告

公開日:2018年12月07日
 
緊急救援ネットワーク 医師 吉井健哲
(派遣期間: 2018年11月8日〜11月17日)
(派遣場所: バングラデシュ、コックスバザール)

バングラデシュ・ロヒンギャ難民緊急医療支援活動に参加された、医師からの報告をご紹介いたします。
 

1)支援活動参加の経緯

小学校の時にシュバイツァーという名前のドイツ人医師のことが書いてある本に出合った。詳しくは覚えていないが、当方が医師になることを夢見させる内容であった。彼のようになれたらと子供心に思ったものである。(ネットでアルベルト・シュバイツァーで調べればWikipediaで出てくる。)約60年たった今でもその思いが連綿と当方の中に続いていたようだ。現在では彼のようになるのは極めて困難なようで、方法論としての選択肢も非常に少なく、その思いを実現させるには、AMDAという選択肢しか思い浮かばなかった。国境なき医師団もあるが、当方が岡山在住ということも一因であろう。もっとも派遣は昨年派遣要請のメールがAMDAより届き、er24を通じて登録していたものが、今回それが叶った、実現したということに過ぎない。諦めない。

−参加前後の変化
数十年という年月は参加前後で急激な変化をもたらさないようだ。その意志や感情に変化はない。コストがそれなりにかかるが、当然バングラデシュには必要とされ可能なら再度支援に入りたいとは思う。この思いはボランティアに行かれた方なら誰でも同じだと思う。必要な支援は時間の経過とともに変化してくる。支援の在り方もそれなりに変わってくる。当方の娘が時々まだ小さい子供を夫に任せて、倉敷の真備へ一人でボランティアに行っているという。そこでも時とともにボランティアの数が激減していると娘から報告がある。天災は時と場所を選ばない。人が組織が時と場所を選ぶ。忘却が最も怖い。
 

2)活動に参加した気づき、感想

ここではBograでの二日間の出来事(注:TMSSという他団体NGOを表敬訪問)は省略させていただく。難民キャンプ最大のクトゥパロン難民キャンプ内(googlemapより)における生活環境・生活状況・支援状況の動きはこれまで参加された方がホームページに掲載された内容とほとんど変わらないと思える。Cox’s Bazar で CNN のTVにおいても、ロヒンギャ難民がミャンマーに帰ることを拒否しているとのニュースが難民のインタビューとして流れている。AMDAバングラデシュの都合でキャンプに入れるのは4日間。現場の状況の把握には短か過ぎる。何を思い何をしてきたかを中心に述べる。

バングラデシュのロヒンギャ難民キャンプの存在は明らかに天災ではない。診療所のある古いキャンプの入り口には大きな商店街が、キャンプの中には小さい店舗も観られる。診療所の近くの店舗は主にお菓子などを売っている。彼等は逞しく生きている。しかし一歩中に入ると総計で100万人に近い難民の中で、クトゥパロンキャンプの70万人近い人達が無為に過ごしているように見える。他のキャンプでもそうなのであろうか。せめて何でもいい生産性のある行為が出来るようになればキャンプの中がもっと活き活きとしてくるのではないかと思った。世界のジレンマをそこに見たような気がする。

診療所でしなければいけはいことは幾らでもある。キャンプに着いた途端に誰でもすぐその事を理解する。しかし日本人医師として出来ることは多くはない。ただし絶えず自分に何が出来るかを前向きに考えること。さもないと自分自身が御荷物になる可能性がある。大学を卒業して病院勤めを始めた時のように、カルテの書方・薬剤の名前・処方の書き方等、理解すべきことは山ほどある。外来診療の合間に薬品リスト作りを始めた。薬剤はバングラデシュのジェネリックだから余計難しい。薬は薬品名ではなく全て薬剤名で覚えていくと理解が早い。何かと時間を必要とするが全く焦ることはない。毎日帰途の車で「今日は何が出来ただろう?」と悩むが、下手な考え休むに似たり。そんな時は車の中でスタッフと陽気に騒げばいい。キャンプに必要な事で自分に出来そうな事を「こんなことがしたい」と自分からスタッフに素直に頼めばいいと分かった。どんなにそれが下らなく思えても。特に英語の分かるコーディネーター氏に頼べば”No problem!”と笑顔で色んな事に応じてくれる。(当方の場合Mr.Arifだが)スタッフもその積極性を買ってくれるようだ。

 

診療の様子

難民の方の直接診察を希望した。あるのは聴診器と血圧計のみ。狭いため診察台も置けない。業務終了直前というタイミングで医師を含め殆どのスタッフが診察室へ入ってきて、診察の手伝いをしてくれた。「トット マムキー?」(お名前は?)、「トット ボーシェット?」(お年は?)、「トッテン キウエデ?」(どうされましたか?)。ここまではロヒンギャ語で言えた。返事は分からない。そこからは英語で。2名の通訳、英語からバングラデシュ語へ、バングラデシュ語からロヒンギャ語への通訳それに英語は医師が手伝ってくれた。3名の外来が終了した時にはとんでもない作業だなと思った。そういえば医師でさえ時として説明に通訳を介していることを思い出した。スタッフのとんでもない配慮。独りよがりでなければ、誠実さには誠実さで応えてくれる。四日間で出来る事はこれが限界かとは考えたくないが。

帰り支度の最中に現地ボランティアの若者の家に案内された。扉を開けてみると中は四方を壁で囲まれた一部屋で、外の道路と同じ高さ、つまり道路からつながる床がある。薄暗い家の中には寝床のような薄い敷物以外見えなかった。物がないから家の中は広くきれいに見える。外と違い石ころ一つ落ちていない滑らかな土の床。壁と屋根は雨露を凌ぎ、外から見えない程度の薄さ。難民キャンプにはお金がない。お金がなければ何も買えない。買えないから店もない。そうなるとゴミがほとんど出ない。道路も舗装されていないから凸凹ではあるが往来にペットボトルは落ちていない。日本では道路のあちこちにペットボトルやナイロン袋そしてアルミ缶などが落ちているのに。

今後の展望として診療所閉鎖の時期が迫っている。生活環境の変化は望めない。しかしおそらく当初は行われたであろう公衆衛生・保健衛生関係を中心に作業を展開できれば支援の継続が可能になるのではと思う。当方が訪れた時期は乾期に入りかけていてか、意外と蠅や蚊が少なかったので最初は分からなかったが、例えていえば、生活があるところでは必ず出る塵。その塵を収集するような基本的な事。可能ならごみの焼却場も含めて。それだけで環境の変化が現れると思う。衛生観念とでもいうか。環境を主とした公衆衛生、身体を主とした保健衛生。そのためには目的・行動計画の作成そして避難民の方への広報・指導もしくは教育の重要さが増す。その繰り返しが力になるのでは。来られる患者さんの大半が感染症であることからも、当たらずとも遠からずではないかと思う。総論としてここまでは思い描けるのだが。もう一つはいうところの公共事業。診療所の仕事ではないが、この場所は丘陵にあり坂道が多いので、階段をつくるようなあるいは道路を平らにするという簡単な土木作業からでもいい。道路の凸凹は車が作る。人が歩くだけでは作らないと当方は考えている。人だけは70万人もいる。何を重点にしていくかはまだ整理できていない。もっと時間のかかる広範囲な調査が必要になる。難民とその必要性も含めて「相互扶助」関係が理解・構築されなければがなければ困難な作業でもあろう。電気も水道もない所でどのようにすればいいのか?日本においても相当の時間を要するのに。帰国前日にAMDAネパールから精神科医が派遣されてきた。キャンプ内での精神科的な疾患の支援を考えての派遣のようだった。4日間の外来でも、何人かはうつ状態かと思われる方が来院していた。ここではレイプされた方は特別な施設に入所されているようだが。帰国したいま、現地でリストアップした薬剤リストの整理と日本国内の薬剤との突合をすべきかどうか迷っている。
 

3)現地支部や現地協力者との関わり

4日間というのはスタッフとのコミュニケーション作りには、と思いつつコックスバーザールに入った。スタッフから受けた感想を述べる。コックスバーザールに居るAMDAバングラデシュのスタッフは、何か崇高な意思を持って支援を行っている訳ではない。彼等はただ支援が当然と思っているに過ぎないように思える。彼等自身の生活の中でもお互いに助け合うことが当たり前の国民性が、支援という行為に現れているだけの様に感じられた。とにかくバングラデシュの方は楽しくてエネルギッシュである。くよくよ悩まない。自分で出来る事から始めるようだ。人的交流においても彼等から離れる事、諦める事はない。Cox’s Bazarのスタッフは遠方から来た人を必ず海へ連れて行くようだ。断ると何か悪いことを言ったような顔をする。小さくてもいい、自分の家族写真を持って行けばどこででもあろうがスタッフに溶け込む道具となる。その写真を手渡して見せると途端に彼らの当方にかけられるトーンに親しみが追加された。一気に距離が縮まったように思う。

外国へ行く場合当方は「地球の歩き方」を使う。今回は「バングラデシュ」。診療所の机の上に置いていたので現地のスタッフも興味深くその本をめくっていた。特にバングラデシュ語が書かれているところを。興味は世界共通。それだけでスタッフとのコミュニケーションの道具となり得た。2000円弱の本がとんでもなく有効な道具になった。
 

4)被災地の様子、被災者の声

左よりAMDAバングラデシュ医師、
調整員、ロヒンギャ難民グループ長

当たり前だが日本とは違い言語という克服できない壁があり、報告は生活環境等観察結果だけになりそうになる。難民の方達との会話にはロヒンギャ語・バングラデシュ語・各国訛りの英語があり最低2名の通訳が必要である。Mr.Arif(AMDAバングラデシュの現地調整員)による通訳でやっと分かった事がある。キャンプコントロール上必要な小規模集団(300人程度の)のトップの方(?)日本的に言えば班長か区長か町内会長のような方が、この支援に対する感謝と必要性それと今後の継続を切に希望されていた。詳しい数字はその後日本のコーディネーター氏にお願いした。現実にいくつものNGOはキャンプから撤退している旨を日本のコーディネーター氏からも聞いた。

Mr.Arifはコックスバーザールのコーディネーターだが、診療所の前の凸凹の道、車1台が充分通れる幅でその両側にあちらなりの簡易住居が並び建ち、大勢の人がたむろする道であったが、ついて来いと言った。雑踏の上り道を10分程度進むと高台に鉄橋が見えてきた。橋の長さは15〜20m位。やはり車1台が通行できる幅がある。彼は橋のこちら側が1992年の古い難民キャンプ、橋の向こう側が25年経って昨年新しくできた難民キャンプだと言った。そこに70万人近い難民の方が住んでいる。時間の関係でそれ以上新しいキャンプエリアには入れなかったので内部の詳細は説明できない。彼が言ってる言葉を詳しくは聞き取れないが、それでも見渡すだけでその言葉の内容が、彼が何を訴えているか理解できる。目の前一杯に住居と思われる簡易な建物が所狭しと建ち広がっている。それも高台から目の届く範囲全てである。「これはほんの一部」だとMr.Arifが言っているように聞こえた。非常に苛酷な何かが起こっている事が分かる。黙ることしか出来ない自分がそこにいた。事実、帰って診療所の貼ってあるキャンプの地図を見つけた時その事を確信した。Google Mapでクトゥパロンキャンプ地と思われる航空地図を見ると、広大な土地に所狭しとならぶ建物を確認できる。
 

立ち並ぶテント

キャンプの地図


5) 感想など

バングラデシュへの派遣承諾の有無を問われるメールがAMDAより来た。数日後本部へ承諾の意向を持って訪問した。それ以来新しいノートを一冊買って「日誌」と称して記録を開始した。医師にとっては患者さんに対して、知識だけではなく誠実さをもって対応することは当たり前。その事と今回は笑顔を絶やさない事の二つを「日誌」の1ページ目に書いた。クヨクヨしない事の決心である。必ず守れることはそんなに多くはない。一つか二つでいい。Mr.Arifがある時「お前はいいやつだ。」と言ってくれた。「何故だ?」と尋ねると、一瞬考えて、真顔で「みんなを笑わせてくれる。」と答えてくれた。苦笑いではなく笑顔だと。数日前Bograに行った時、一度だけ笑顔が消えて声を荒げた。「2日もCox’s Bazarへ行くのが遅れた」と。正確には「2日ロスした」と言ったのだが、ただこの時笑顔で言っていたらその後の信用は皆無だっただろうと今でも思っている。

かなり前に(三十年程前)一人でドイツ旅行に行った時、帰るためにフランクフルト国際空港の航空会社のカウンターで予約チケット見せると「その便はないよ。」と知らされた時にさえそんなに驚かなかった経験がある。なんとかなると思うのがよかったのか、幸いその時は事なきをえたが。自分の性格を分かってもらえる数少ない経験談としている。戸惑い等に関して、若い頃から自分自身その事を楽しむか面白がる傾向にあり、そのお陰で精神的には他人には説明出来ないゆとりのようなものがあったようだ。自分自身を俯瞰して見るというのが最も適切な言葉。
 

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